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金木犀の鍵と、泣くと記憶が抜ける女宿  作者: 乾為天女


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第16話 出ていくと言わないで

 夕方の運河は、光の端だけが細く残り、波の上でほどけたり結び直されたりしていた。女宿仕立所の玄関に戻ると、床板が一度だけ鳴った。今朝リュカが蝶番に油を差したはずなのに、鳴る。エリは胸の奥で同じ音がするのを聞いた。


 階段の影に、黒い外套が立てかけられていた。外套の裾は濡れていない。雨は降っていないのに、布だけが冷たい。カリムが小さな荷袋を抱え、結び紐を二度、三度と引いている。引くたびに、指の間から匂いのしない黒い滲みが覗いた。


 「……出るの?」

 エリが言うと、カリムの肩がわずかに跳ねた。振り向くまでの間に、目元に迷いが走り、すぐ消える。消し方が、慣れている。


 「ここは、もう……人が増えた。私がいると」

 言葉の途中で、カリムは唇を噛んだ。「危ない」と言いかけて飲み込んだのが分かった。掟がある。秘密を笑いものにしない。だから、強い言葉で縛ってはいけない。エリは腕を伸ばしかけ、途中で手を引っ込めた。針なら迷わず刺せるのに、人の肩には触れられない。


 食堂の机の上に、ダーテンハーンが皿を並べていた。いつもなら鍋を鳴らして「登場!」と叫ぶのに、今日は音を立てない。薄い茶の湯気が、低く漂う。皿には、砂糖をまぶした小さな焼き菓子が三つ。形は不揃いで、端だけ少し焦げている。


 「焼き過ぎた? いや、焦げ目は味の記憶だ」

 ダーテンハーンは独り言みたいに言い、焦げたところを自分の皿へそっと寄せた。誰にも見られていないつもりの動きが、ばっちりエリに見られている。

 「……それ、好きなんだ」

 「好きじゃない。責任だ。焦げ目の責任」

 言いながら、彼はカリムの前に一つだけ皿を置いた。置き方が、そっとだ。滑って笑いを取る足取りは、今日はどこにもない。


 リュカは玄関にしゃがみ、敷居の角を布で拭いていた。きれいにしたいのは床なのに、視線だけはまっすぐにカリムへ向く。拭く手が止まり、言葉が一つ落ちた。

 「君が消えるなら、宿が消える」

 短い。余分がない。カリムは息を呑み、荷袋の紐を握り直した。握った指先に、黒い滲みが一瞬だけ濃くなる。


 「……だから、消える前に、出る」

 カリムの声は小さいのに、床板の隙間に染みるように残った。


 エリは台所へ行き、棚のいちばん上から乾花の瓶を下ろした。金木犀。祖母が最後まで守った瓶だ。蓋を開けると、薄い香りがふっと立つ。派手じゃない。けれど、心臓の裏側に触れる匂いだ。

 次に、砂糖菓子の袋を探す。市場の甘味が消えた日、最後に残っていた白い砂糖を、女たちが小さく分けてくれた。エリは袋を握って、指に粉が付くのを確かめる。粉がある。甘さが残っている。


 テーブルに戻ると、カリムはまだ荷袋の口を閉じきれずにいた。逃げ道を作りながら、戻る道をどこかで探しているみたいに。

 ダーテンハーンが、低い声で言った。

 「笑いは逃げ道じゃなく、戻る道だ」

 彼は言ってから、すぐ口を閉じた。言葉を押しつけない。皿の上の焼き菓子が、代わりにそこにある。


 エリはカリムの外套を机の上へ広げた。触れると冷たい。黒い滲みのところだけ、指先が少し痺れる。痺れの向こうで、何かが「見ないで」とささやく気がする。

 「ほどくね。痛かったら、言って」

 エリは針箱を開け、細い糸を選んだ。金色ではない。目立たない生成り。夜に溶ける色だ。


 金木犀の乾花を指で砕き、布の上にほんの少し散らす。次に砂糖菓子を一つ割り、粉を滲みの周りへ落とす。香りと甘味が揃うと、布の温度がふっと戻った。黒い滲みが、呼吸みたいに縮んで、また広がる。

 エリは針を刺し、滲みの縁を小さく一周縫う。縫い目は飾りじゃない。逃げないための柵でもない。ほどけるための道筋だ。


 「……私、何を……」

 カリムが呟いた。言いかけた言葉が、自分の口から落ちていくのを見て怖くなった顔をする。エリは顔を上げずに答えた。

 「いまは、言わなくていい。言えないことは、糸が知ってる」

 糸は嘘をつけない。ほどけるときに、必ず震える。


 リュカが椅子を静かに引き、カリムの隣へ座った。座る音さえ、床に落とさない。彼は外套の端を押さえ、皺が寄らない角度を作る。エリが縫いやすい角度だ。

 「荷袋の紐より、ここを結べ」

 リュカは言い、外套の裏の縫い代を指先で示した。そこに、古い縫い糸の継ぎ目がある。継ぎ目のそばに、刺繍の欠片が残っていた。糸はほどけかけているのに、模様だけはしぶとく残る。


 エリは針先を止め、模様の欠片を見た。花の蔓。輪の形。誰かの胸元を飾るための刺繍だったはずの意匠が、黒い滲みの奥でちらりと光った。宿の布では見ない上等な糸の光り方だ。


 ダーテンハーンが、焼き菓子を指で割り、カリムの前へ差し出した。無理に口へ押しこまない。ただ、逃げられない距離に置く。

 「あなたの好きなスイーツは、何」

 カリムは言葉を探し、目を閉じた。唇が震え、名前が出ないときのように息が詰まる。

 それでも、短い音がこぼれた。

 「……砂糖の……白い……」

 言えたことに、カリム自身が驚いて目を開いた。エリの針が、そこで少しだけ進む。滲みが一瞬薄くなり、布の下から別の布が覗いた。


 白い布。細い金糸。肩から胸へ流れるような、婚礼衣装の意匠。


 エリは息を吸い、針を抜かずに糸を引いた。引く力を、強くしない。切れたら戻れなくなる。

 「出ていくって言うなら……言えるようにしてからにして」

 エリの声は、針穴みたいに小さい。けれど、糸はその声を拾う。


 カリムは荷袋の紐をほどき、指先を開いた。開いた手が、外套の上で止まる。逃げる手ではない。触れる手だ。

 「……言わない。いまは」

 その一言で、黒い滲みが少しだけ縮んだ。縮んだ隙間から、王家の紋を思わせる輪の模様が、もう一度だけ見えた。


 湯気が机の上を流れ、金木犀の香りが遅れてついてきた。エリは縫い終わった糸を二度返しで留め、針を布の外へ抜いた。

 抜いた針先は、誰も傷つけていないのに、少しだけ温かかった。



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