第15話 忘れられる宿
朝の運河は、昨日より静かだった。干した網が風に鳴らず、石畳を踏む足音だけが遠くへ逃げていく。エリは玄関前で、手のひらを看板に当てた。
そこに縫い留めてあったはずの文字が、なかった。
木目だけが白く残り、「女宿仕立所」と読める糸の影が、ほどけた跡のように薄く揺れている。エリは爪先で台に寄り、目を細めた。昨日までの自分の歩幅が、今朝は宙に浮いている気がした。
「……いやだな」
声にした瞬間、通りを歩いていた魚売りの女が、看板の前で立ち止まり、首を傾げた。
「ここ、何か……木の家が……」
女は言いかけて、笑って誤魔化した。
「いや、今朝は寝ぼけてるだけだね。買い物、行かなきゃ」
視線が、エリの顔を通らずに滑る。知らない人を見る目ではない。見えているのに、結び目が作れない目だ。エリの喉が、乾いた。
扉の内側では、リュカが机の角を指で撫でていた。木のささくれを確かめる癖が、今朝は余計に丁寧だ。ダーテンハーンは、戸口で片足を上げ、何もない空気につまずいたふりをしていた。
「ほら! 見えない段差! 僕、今日も負ける!」
「段差はない」
「ないのに転べるのが、芸!」
笑わせようとしているのに、笑い声が薄い。食堂の椅子が一脚、誰にも押されていないのに、きいと鳴った。屋根裏の方から、冷たい気配が降りてくる。
そこへ、香り組合の男が三人、紙束を抱えて現れた。先頭は、昨日の検査役ベルトランではない。髭の濃い事務係が、まるで壁の前に立つように、扉の前で止まった。
「空き家の整理だ。ここは所有者不明の建物として——」
男は紙を読み上げながら、途中で言葉を詰まらせた。
「……として……ええと」
視線が看板へ向く。看板には文字がない。男の指が、宙で迷子になる。
リュカが一歩前に出て、宿帳を開いた。白紙ではない。昨日までの名前が、丁寧な字で並んでいる。
「所有者はここにいます。鍵もあります。宿帳もあります」
「宿……? いや、ここは……」
男は自分の言葉を探し、見つからずに眉間を寄せた。
「……紙に書いてあるから来た。だが、来た理由が……」
ダーテンハーンが、男の背後から覗き込み、紙をひょいと指さした。
「つまり! 忘れてる! 忘れてるなら、思い出せばいい! ねえ、皆さん、広場へ!」
言うが早いか、ダーテンハーンは通りの女たちに向かって、手を叩いた。乾いた音が、運河に跳ね返る。
「今日の昼、市の広場で黒糖パン焼きます! 焼きたての匂いで、頭の結び目をぎゅっとする! 合言葉は——『わたしの好きなスイーツ』!」
聞き慣れた言葉に、魚売りの女がぱちりと瞬きをした。
「……あ、あんた……この前の……。蜂蜜の焼き菓子、だっけ」
言えたことに自分で驚き、女は笑った。笑いが周りへ伝わり、通りの空気が少しだけ厚くなる。
昼。広場の石の上に、ダーテンハーンが台を組んだ。鍋の下で火が踊り、黒糖が溶ける匂いが立つ。彼は大げさに鼻をすんすん鳴らし、観客の前で胸を叩いた。
「さあ! 名前が出てこない人は、舌を甘い方へ預けて! まずはこれ! あなたの好きなスイーツは何!」
前列の老婆が、腕を組んだまま言った。
「そんな恥ずかしいこと、言えるかい」
「言えないなら、僕が言う! おばあさまの好きなスイーツは——石ころ!」
「食べられるか!」
老婆が手ぬぐいで叩き、観客がどっと笑った。笑いの中で、老婆は口の端を緩める。
「……焼いたリンゴだよ。砂糖を少しだけのせてね」
その瞬間、エリは胸の奥がちくりとした。広場の隅で、針箱を開く。白い布に、小さな札を次々縫う。糸は金色ではなく、目立たない生成りだ。けれど、文字だけはほどけないように、二度返しで留める。
札には、「女宿仕立所」と縫った。
エリは出来上がった札を、元宿泊客の胸元へ渡した。魚売りの女は、受け取ると自分の上着に当て、針を求める目をした。エリは黙って針を差し出す。女は唇を噛み、震える手で留める。留めた途端、女の視線がすっと一本にまとまった。
「……あった。ここへ逃げて、泣いて、笑った」
女は札を押さえ、息を吐いた。
「……あの宿、あったよね」
次々に、声が重なった。
「黒糖パン」
「ミルク飴」
「蜂蜜の焼き菓子」
「焼いたリンゴ」
「甘いものなんて嫌いって言ったのに、夜中に食べたビスケット」
言葉が匂いに引っぱられ、記憶が糸へ戻る。ダーテンハーンは、パンをひっくり返すたびに派手に腕を振り、わざと粉を自分の鼻につけて咳き込んだ。
「ごほっ! ほら見て! 白い! 僕が白くなれば、みんなの思い出も白くならない!」
「意味が違う」
リュカが言いながら、台の脚をまっすぐに直す。傾きを許さない手が、今は人の心の傾きも支えている。
広場の向こうから、香り組合の事務係がまた来た。今度は紙を握りしめているのに、足が止まる。札を付けた女たちが、まっすぐにこちらを見たからだ。
「空き家の……」
「違う」
魚売りの女が言った。声が、潮風に負けない。
「ここは、女が泣いていい場所だ」
エリは金木犀の枝を掲げた。まだ蕾で、香りは薄い。それでも、葉の青さが目に刺さる。エリは枝をゆっくり振り、誰にでも見える高さで止めた。
「ここに宿があると、縫い留めます」
エリは言い、針を一本、空へかざした。
「忘れられても、また縫います。誰かが夜を越えるために」
そのとき、広場の外れの影で、黒い外套の裾が揺れた。カリムだ。名を呼ぼうとして、エリは喉を押さえた。呼べば、また誰かの認識が削れる。カリムは小さく首を振り、視線だけで「見ないで」と言った。
エリが目を逸らさずにいると、カリムは自分の袖口を握った。匂いのしない黒い滲みが、指の間で脈打つ。
夕方、広場の人波が引いたころ、エリは宿へ戻った。札を付けた女たちが先に歩き、「こっちだよ」と言いながら、見えないはずの入口へ迷わず向かう。その背中に、エリの目が熱くなる。
玄関前で、看板の木目がふっと揺れた。誰かが見ている間だけ、文字の影が戻る。完全ではない。けれど、戻る。
夜。食堂で湯気が上がり、黒糖パンの甘い匂いが残る。エリが針箱を閉じたとき、階段の影からカリムが降りてきた。足音はないのに、床が少しだけ冷える。
「……皆が助かるなら」
カリムは唇を噛み、目を伏せた。
「私が出ていけば、いい」
エリは返事を急がなかった。急げば糸が切れる。代わりに、湯気の向こうから、皿を一枚差し出す。焼き菓子の欠片が、ひとつ。
「今夜の、わたしの好きなスイーツは……これ」
エリは言い、皿をカリムの前へ置いた。逃げ道ではなく、戻る道を、机の上に縫い始める。




