第14話 別れの手紙、書けない夜
昼の港は、潮より先に声が立つ。荷を下ろす木箱が鳴り、縄が擦れ、笑いが跳ねる。エリは仕立所の買い足しのため、茶葉と針糸を受け取りに来ていた。掌の袋が少し重い。重いのに、歩幅は軽くならない。
呼び止めたのは、見知らぬ男だった。髪を油で撫でつけ、上着の襟だけが妙に新しい。胸の前で紙片を二本の指にはさみ、濡れない場所へ寄せるように持っている。
「女宿仕立所の、エリか」
名前を呼ぶ声が、海風より乾いていた。
「そうです」
「届け物だ。短い」
男は封もない紙を差し出した。指先が紙の角に触れた瞬間、エリの腕の中で空気が固まった。
紙には、たった三文字。
『戻って来い』
署名はない。けれど、筆の癖だけで分かる。濃く押しつける線。最後だけ急に細くなる。言い争いの夜、卓上に残された食器と同じ形の字だ。
エリは紙を握りつぶしたくなった。なのに、指が動かない。掌は紙の温度を覚えているのに、握る力が抜けていく。口の中が、乾く。
「返事も要るそうだ」
男は言い、顎で港の奥を指した。そこに、馬車が一台止まっている。車輪の泥がまだ新しい。来たばかりだ。
エリは紙を持ったまま、視線を落とした。ふいに、焦げた布の匂いが鼻の奥で蘇る。第1話の外套の縫い目にあった、指輪の跡のような丸い焦げ。あれは、ただの汚れじゃない。指輪が触れて、熱が移った跡だ。
記憶が一枚、はがれかける。
——細い指。金の輪。握られた手首。逃げられないように、笑う口元。笑っているのに、目が笑っていない。
エリは肩をすくめ、息を吸った。潮の匂いで咳が出そうになり、出ない。涙も出ない。出ないのに、胸の奥が、布を裂く前の刃みたいに痛い。
「……受け取ります」
エリは紙を折り、胸の内側へ入れた。男は満足したように頷き、港の喧騒に溶けるように去っていった。
仕立所に戻る道すがら、エリは何度も胸元へ手を当てた。紙の角が、針先みたいに刺さる。破ってしまえ。捨ててしまえ。そう思うたびに、指が止まる。止まるのが腹立たしくて、足音だけが速くなる。
玄関の鈴が鳴る前に、リュカが扉を開けた。手には、測り棒の代わりに巻き尺がある。彼はエリの顔を見て、何も聞かずに脇へ退いた。通り道を作る動きが、いつもより静かだ。
食堂には、ダーテンハーンがいた。今日は椅子の脚に布を巻き、きしみを止めようとしている。布がずれて、彼の指が椅子に挟まった。
「うわっ、これ、椅子が僕の指を食べた!」
叫んだあと、エリの胸元の膨らみに気づいて、目を丸くする。
「おや? 紙? 恋文? それとも請求書? どっちにしても読み上げると胃が痛い!」
「読まないで」
エリは短く言った。言い終えた自分の声が、少しだけ震えているのが分かった。
ダーテンハーンは両手を上げた。
「了解! 僕は読まない! でも当てる! 『わたしの好きなスイーツは?』って書いてある!」
「書いてない」
リュカが机の上を片づけ始めた。紙屑を拾い、鉛筆を揃え、角が潰れた封筒を押し伸ばす。動きが落ち着きすぎていて、見ている側の息も整っていく。
リュカは白い紙を一枚、エリの前へ置いた。鉛筆も添える。紙の端が机と平行になっている。
「返事は、相手のためじゃなく、自分のために書け」
言い方に余計な飾りがない。だから、逃げ道がない。
エリは胸元から紙を出し、机に置いた。『戻って来い』の三文字が、灯りの下でやけに大きい。破りたい。なのに、手が伸びると、止まる。指先が紙に触れられない。
ダーテンハーンが背後から覗き込み、わざと小声で囁いた。
「三文字って、短すぎて、逆に怖いよね。僕の得意な短文は『転んだ』だよ」
「……今は、転ばないで」
「転ばない! 今日は椅子に食べられただけ!」
エリは思わず息を吐いた。吐いた息が、胸の硬さを少しだけ崩す。笑いが、縫い目の隙間を作る。
リュカが湯を沸かし、小さな茶碗を三つ並べた。乾いた金木犀の花をひとつまみ。湯気が立つと、香りは強くないのに、胸の奥をゆっくり撫でた。
「飲める?」
リュカが尋ねる。エリは頷き、茶碗を両手で包んだ。熱が指に移る。冷えていた指先が、少しずつ戻る。
ダーテンハーンが皿を差し出した。小さなビスケットが三枚。角が欠けている。
「さっき椅子に食べられたとき、僕も欠けた。だからビスケットも欠けてる。仲間だ」
「……欠けすぎ」
「仲間を増やしたいんだよ」
エリは一枚を口に入れた。甘さは薄い。けれど、噛むと粉がほどけて、舌に残る。香りと甘味がそろうと、呼吸の深さが変わる。胸の中の糸が、きゅう、と鳴る。
エリは白い紙に鉛筆を当てた。
最初の一画が、出ない。出ないのに、鉛筆の先だけが紙を擦る。細い灰色が増える。
——戻る場所は、どこ。
——戻ったら、何が残る。
——戻らないなら、何を手放す。
言葉が喉の奥で絡まり、紙に降りてこない。
リュカは黙って、机の角をもう一度揃えた。揃えた指が、ほんの少しだけ止まる。止まったのは、エリが鉛筆を握る手に力が入りすぎていたからだ。
「手は、折れない」
リュカが言った。折れないのは紙じゃない、とでも言うように。
エリは鉛筆を持ち替え、息を吐いた。湯気の向こうで、祖母の背中が一瞬だけ見えた気がした。針山に針を挿し、何も言わずに縫っていた背中。言わないことで守っていた背中。
エリは、紙に一言だけ落とした。
『ありがとう』
それだけで、手が軽くなる。驚くほど、軽い。
エリはその一言を折り畳み、封筒に入れた。封をする糊がないから、糸で留める。針を通し、結び目を作る。ほどけない結び目ではない。必要なときにほどける結び目だ。
胸の奥で、何かが外れた。音はしない。けれど、息が通る。涙が出そうになり、出ない。出ない代わりに、湯気の匂いが、少しだけ甘く感じた。
「出せる?」
リュカが尋ねた。エリは封筒を見つめ、頷いた。
「港へ。明日……いいえ、今夜のうちに、渡します」
ダーテンハーンが立ち上がり、胸を叩いた。
「護衛は僕! 海賊が来ても、僕が転んで注意を引く!」
「来ない」
「来ないなら、転ばない! でも転べる準備はする!」
夜の外へ出る前に、エリは二階を見上げた。屋根裏の扉は閉まっている。そこにいるはずの、名を「カリム」とだけ縫った女の気配を、エリはまだ探せる。探せるのに——。
食堂に、客が集まり始めた。茶碗が鳴り、椅子が軋む。いつもの夜が戻る。
けれど、最初の女客が階段の影を見て、首を傾げた。
「……ここ、さっきまで誰か……」
言い終える前に、刺繍札へ視線が落ちる。札を見たのに、眉がほどけない。
「えっと……えっと……」
二人目の客が、同じ場所を見た。口を開け、閉じ、笑って誤魔化そうとして、誤魔化しきれない。
「今夜、あの人……いたっけ」
半分の視線が、屋根裏の暗がりを素通りする。見えているのに、名が結べない。認識だけが、糸の途中で切れていく。
エリは封筒を握りしめた。『ありがとう』の結び目が、胸の内側でほどけるかわりに、別の糸が、町の夜へ伸びていく。




