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金木犀の鍵と、泣くと記憶が抜ける女宿  作者: 乾為天女


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第13話 誰にも言えない本名

 夜の運河は、昼の青さを捨てて、黒い布を一枚かぶったみたいに静かだった。女宿仕立所の窓には、灯りが四つ、点で並ぶ。キンモクセイの乾花を入れた湯が、食堂の奥で小さく鳴り、湯気が天井へ薄い糸を引いた。


 昼間の少年は、まだ帰らずに台所の隅にいた。腕まくりをして、粉のついた手で皿を拭いている。布巾の端が破れかけているのに気づくと、エリは黙って針箱を押し出した。少年は一度だけ目を上げ、すぐに下げる。針を受け取る指が、熱いパンを掴んだ時と同じ形で丸くなった。


 リュカは棚の前で、皿の高さを揃えていた。音は立てない。皿と皿の間に布を挟み、擦れを消す。何かを「整える」ことで、夜の揺れを薄くする癖が、今日もそのまま手に出ている。


 ダーテンハーンは、食堂の端に布を一枚張り、なぜか木の匙を頭に差していた。王冠のつもりらしい。客のひとりが笑いそうになり、口元を手で隠す。隠した指の隙間から、湯気が逃げた。


 「今夜の芝居は、名乗れない姫の話だ!」

 ダーテンハーンが声を張ると、少年がびくっとして布巾を落とした。リュカが無言で拾い、少年の手に戻す。少年は何も言わず、もう一度拭き始めた。


 エリは、階段を見上げた。屋根裏の暗がりは、昼より濃い。そこに座る影があるのは分かるのに、目を逸らすと「最初からいなかった」と言われそうな気配が、天井板の隙間から降りてくる。


 そのとき、二階の踊り場から、足音が一つだけ落ちた。布を踏まない歩き方。降りてきたのは、カリムだった。黒い外套を羽織り、袖口の滲みを内側へ隠すように手首を曲げている。目が合うと、カリムは小さく頷いた。それだけで「今夜は消えていない」と胸の奥が少しだけ温かくなる。


 カリムは、食堂の入り口で立ち止まり、唇を動かした。声を出す前に、息が浅く引っかかる。


 「……本当の、名は——」


 そこで音が途切れた。声が掠れ、言葉の形だけが空中で崩れる。椅子に座っていた客が、首を傾げた。

 「いま、誰の話を……?」


 その「誰」が、刃物みたいに冷たかった。エリは一歩踏み出し、カリムの腕へ手を伸ばしかけて止めた。触れた瞬間に思い出が薄くなるのを、もう知っている。


 リュカが、紙を一枚、机に置いた。白い紙。鉛筆。いつもの組み合わせ。

 「書けるなら、書く」

 カリムは鉛筆を握り、先を紙に当てた。けれど、線が出ない。鉛筆の芯が折れたわけではない。指が動いているのに、紙に意味が落ちない。書いたはずの線が、見ようとした瞬間に「なかった」ことになる。


 ダーテンハーンが、わざとらしく胸を張った。

 「姫は名乗れない! 名乗れないから、名札を二枚つける!」

 彼は自分の胸に、紙を二枚、重ねて貼った。片方は「だーてん」、もう片方は「はーん」。客が噴き出す。笑いの湿り気が、空気を少しだけ重くする。重い空気は、軽い忘却を押し返す。


 エリは、針箱を開けた。刺繍札の白い布片を二枚。糸は、金木犀の色に近い薄い橙と、夜の影に近い灰。

 針を通すと、手が震えない。震えるのは、名前を口にしようとする時だけだ。


 まず一枚目に、ゆっくりと縫う。

 カ・リ・ム。

 糸が布を貫くたび、針先が小さな光を拾う。次に、裏の布へ針を移し、同じ大きさで、別の言葉を縫った。

 言・え・な・い。


 出来上がった札を二枚重ね、端を細い糸で留める。表が「カリム」。裏が「言えない」。めくろうとしたら、めくらずに触れるだけで分かるように、縁にだけ違う結び目を作った。ほどけにくい結び目。けれど、固めすぎない。


 「これを、ここに」

 エリは、カリムの胸元へ札を差し出した。カリムは一瞬だけ迷うみたいに指を止め、次の瞬間、そっと受け取った。袖口の滲みが、布の影で小さく揺れた。


 客のひとりが、恐る恐る尋ねた。

 「……その札の人、誰?」

 カリムは答えようとして、また息が詰まる。


 リュカが、机を軽く叩いた。強くない。紙がずれない程度の音。

 「みんなで、言う」

 リュカは、まず自分で言った。

 「カリムが、ここにいる」

 次に、少年に目を向けた。少年は口を開き、声が出ないまま一拍置いた。それでも、出した。

 「……カリムが、ここにいる」

 その声の細さが、逆に本気だった。


 客たちも、順に繰り返した。笑いの残り香の中で、言葉が輪になる。輪は、床板の隙間から染みてくる冷たさを少しだけ押し返す。


 ダーテンハーンが、芝居を始めた。布の幕の向こうで、王冠の匙が揺れる。

 「姫は毎晩、キンモクセイのお茶を飲む! なぜなら、香りが好きだからだ! そして姫は、こう尋ねる——」

 ダーテンハーンが観客に指を差す。

 「わたしの好きなスイーツ、今日は何にします?」


 客が一斉に口を押さえ、次に笑った。笑いながら、誰かが答える。

 「蜂蜜の焼き菓子!」

 「黒糖パン!」

 「ミルク飴!」

 砂糖が町から消えた夜でも、口の中の甘さはまだ残っている。思い出の味が、名前の代わりに灯りになる。


 エリは台所へ戻り、乾花を一つ、湯へ落とした。香りが立つ。強くない。けれど、湯気が鼻の奥をくすぐる。小さな蜂蜜の欠片を皿に乗せ、客の机へ回す。誰かが「こんなに小さいのに甘い」と笑う。小さいから、守れる。


 芝居の幕の内側で、ダーテンハーンは姫役になり、名札を胸に二枚貼って、わざと困った顔をしてみせた。困った顔のまま、客の一人に向けて、深々と頭を下げる。

 「わたしは、あなたの幸せを願って、手放す」

 その言葉は、芝居の台詞なのに、食堂の空気が一瞬、しんと静まった。別れのトリガーという言い方を、誰も口にしない。けれど、同じ動きが胸の内側で起きるのを、皆が分かった顔で息をした。


 カリムは、椅子の背に手を置き、音を立てずに座った。視線が、札の「言えない」に落ちる。落ちたまま、ゆっくりと目を閉じた。エリは「眠れ」とも「話せ」とも言わず、ただ湯気の向こうを見守った。


 そのとき、灯りが一瞬だけ揺れた。風ではない。忘却が、扉の隙間から入り込んだ揺れだ。客のひとりが眉を寄せる。

 「……今、誰が座って……」

 言いかけた唇が、刺繍札に気づいて止まった。二重の札が、光を受けて小さく膨らむ。彼女は慌てて言い直した。

 「カリムが、ここにいる」


 リュカが頷き、テーブルの端を指で揃えた。紙を揃える動き。言葉の端も揃える動き。


 夜が更け、客が部屋へ上がるころ、ダーテンハーンは王冠の匙を外し、少年の前に置いた。

 「明日から、これ、君の王冠にしな。似合うよ」

 少年は匙を見つめ、指で一度だけ触れ、そっと返した。

 「……いらない」

 「じゃあ、貸す。貸しっぱなしにすると、返ってこないからね」

 少年は、口元だけ動かした。笑ったのか、息を整えただけなのか、区別はつかなかった。けれど、空気が少し軽くなる。


 食堂の片付けが終わり、エリが灯りを落としかけたとき、カリムが立ち上がった。外套の裾が、床を撫でる。


 「……言えない」

 カリムは、自分の胸の札を指で押さえた。押さえた指が、微かに震えた。

 「でも……ここに、いる」


 その言葉が、針で留めたみたいに心に残った。エリは「うん」とだけ頷き、扉の鍵を回した。鍵穴の音が小さく鳴る。


 階段を上がる背中を見送りながら、エリは気づいた。カリムの影の端に、糸より細い光が混じっている。外套の裏から、ほんの一瞬、紋章の形が覗いた。小さな冠と、波の模様。港町の飾りではない。


 エリは、針箱の蓋を閉じた。音を立てないように。けれど胸の中では、糸が一本、静かに引き締まっていった。



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