第12話 金木犀を盗む者
夜更け。運河の水が、月を薄く割っていた。庭の鉢植えの金木犀は、昼の検査役が置いていった甘いだけの壺より、ずっと素直に匂う。エリは縁側に腰を下ろし、指先で木の柵をなぞった。ささくれが一つ。あとで布で巻こう、と頭の隅で決める。
リュカは庭の角で、灯りが落ちない位置に提灯を置き直していた。置いたあと、地面の小石を拾って端へ寄せる。歩くたびに、足音が小さくなる。
ダーテンハーンは、見張りのはずなのに、なぜか鍋を抱えていた。
「もし香りが奪われたら、代わりにスープの匂いで守る。鼻はだませる」
「だませないと思う」
エリが言うと、ダーテンハーンは鍋の蓋を少し開け、湯気を鼻先へ。
「……ほら、玉ねぎ。強い」
リュカが鍋を見て、ひと呼吸だけ間を置いた。
「それは……宿泊者の寝具に移ります」
「寝具が玉ねぎになっても、泣けるよ!」
「それは別の涙です」
エリは笑いそうになり、口元に拳を当てた。笑いが喉で跳ねる音を、夜に落としたくなかった。
そのとき、屋根裏の方から布が擦れる気配がした。エリは振り向かず、ただ縁側の板の冷たさを足裏で確かめる。見上げれば、影が怯える。だから見ない。代わりに、いつもより小さな声で言った。
「……いるよね」
返事はない。けれど風が一瞬だけ止まり、提灯の火が真っ直ぐ立った。
夜は、そのまま終わった。
朝。扉を開けた瞬間、空気が軽かった。軽すぎる。花がいない。
エリは庭へ走り、鉢の台を見た。丸い土の跡だけが残り、木の葉が二枚、乾いた音で貼りついている。
「……ない」
言葉が、口から落ちた。
食堂では、昨夜から泊まっている女客が、寝間着の襟を握りしめたまま座っていた。刺繍札に触れても、指が震え、目は乾いたまま。
「香りがしないと……糸が、動かない気がして」
泣きたいのに泣けない、そんな息の詰まり方だった。
ダーテンハーンが、昨日の鍋を持ち上げた。
「玉ねぎでいく?」
「やめて」
女客が即答し、エリも即答した。三人の即答が重なり、場の緊張が少しだけほどける。
エリは急須に湯を注いだ。乾花はもう少しで尽きる。残りを守るより、鉢を取り戻さないと、この宿の夜が痩せる。
リュカが宿帳を閉じ、鉛筆を置いた。
「市場の裏を見ます。鉢は重い。運ぶなら、車輪か、複数の手」
「私は、匂いの残りを追う」
エリはエプロンの紐を結び直した。結び目がきゅっと締まる音がする。
午前の市場は、甘味屋の扉が軒並み閉まっていた。いつもなら砂糖の粉が空に舞い、子どもが指先を舐める場所なのに、今日は乾いた木の匂いだけ。裏路地では、空の木箱が積まれ、縄が切れたようにだらりと垂れている。
その奥で、少年が一人、枝を抱えて身を縮めていた。金木犀の小枝だ。葉の擦れる音が、逃げようとする心の音に似ている。
少年はエリに気づくと、枝を背中へ隠した。隠し方が下手で、葉がはみ出す。
「それ、落とすよ」
エリは近づかずに言った。怒鳴らない。怒鳴れば、足が速くなる。
少年は唇を噛み、目を泳がせた。袖口が裂け、糸がほつれている。そこから、白い肌がのぞく。
「……返さない。俺、これ、仕事で……」
「仕事なら、まず袖を直そう」
「え?」
少年が戸惑ううちに、エリは針と糸を取り出した。裏路地の壁に背を預け、距離を保ったまま、手招きする。少年は半歩だけ近づいた。半歩が限界なのだと、足先が教える。
エリは袖口をつまみ、ほつれた糸をほどき、短く切った。針を通す。布が痛がらない角度で、糸を引く。少年はじっと見ている。逃げるより、針の動きが気になる顔だ。
「……叩かないのか」
「叩く手は、縫えない」
エリは答え、最後に結び目を布の内側へ隠した。見える場所で結ぶと、ほどけやすい。
少年は袖を動かし、裂け目が消えているのを確かめた。喉が鳴る。
「俺、組合の人に……鉢、運べって。甘味屋の砂糖も、運べって。運ばないと、家の……」
言葉が詰まり、少年は枝を抱え直した。枝が震え、葉が一枚落ちた。
「鉢はどこ」
「倉の裏。……返したら、俺、怒られる」
「返したら、朝まで台所でパンを焼く手伝いをしていい」
少年が顔を上げた。
「……パン?」
「砂糖はなくても焼ける。焼けた匂いは、空腹を黙らせる。手伝いの代わりに、ひと切れは食べていい」
少年の鼻がひくりと動いた。好きな甘味を聞かれるより先に、喉が答えた。
「……焼けた端っこ」
エリは頷いた。答えが小さいほど、本当のことが多い。
倉の裏には、鉢が布で包まれて置かれていた。持ち上げると土の重みが腕に来る。少年は両手を差し出し、エリと一緒に運んだ。運ぶ途中、リュカが角から現れ、無言で鉢の底を支える。三人の歩幅が揃い、土が揺れない。
宿へ戻ると、女客が鉢に気づき、息を吸った。まだ薄いが、確かに花の輪郭が戻っている。
「……ある」
その一言だけで、肩が少し下がった。
台所では、ダーテンハーンが粉袋を抱えて待っていた。
「おお、泥棒……じゃない! 新しいパン職人!」
少年が身構える。
「からかわない」
エリが言うと、ダーテンハーンは両手を上げた。
「からかわない。見せびらかす。パンはすごいって」
少年は手を洗い、粉をこねた。最初は指が固く、次第に掌が覚える。リュカは火加減を見て、薪を一本だけ足した。多すぎない。足りなくない。ダーテンハーンは、こねる手の動きに合わせて、変な歌を小声でつけた。少年の口元が一瞬だけ緩み、すぐに戻る。
焼けた匂いが立ち上がるころ、庭の金木犀も、朝の光で少しだけ香った。女客が食堂で、深く息を吸う。エリはその息の深さを見て、今夜も夜が持つと分かった。
パンが焼けた。端っこを切ると、湯気が白い糸みたいに立つ。少年は、ひと切れを両手で受け取り、熱さに指を震わせた。けれど落とさない。落とさないように、指が丸くなる。
「……組合の親方が言ってた」
少年が、噛む前にぽつりと漏らした。
「花を奪って、夜を不安にして……“忘れさせる壺”を金持ちに売るって。嫌なこと、全部消せるって」
エリはパンの湯気を見つめたまま、針山に指を置いた。湯気はすぐ消える。消えるからこそ、見落とす。
「その壺の話、他に誰が聞いた」
少年は首を振り、かすれた声で言った。
「俺だけ。……だから、俺、もう運びたくない」
エリは少年の袖口をもう一度見た。直した糸が、きれいに布に馴染んでいる。
「運ばない代わりに、ここで話して。消される前に、縫い留める」




