第11話 検査の朝、笑いで足を止める
翌朝、運河の霧が石畳の足首を舐めるころ、玄関の前に革靴が三足揃った。香り組合の渦巻きの印を胸に下げた検査役が先頭で、後ろに帳面持ちと、香り壺を抱えた若い男。三人とも、息を吸う前から顔が硬い。
リュカが扉を半分だけ開け、蝶番の鳴きを指先で押さえた。戸口の境界刺繍が、朝の光で細く光る。
「通告のとおり、検査に来た。女宿仕立所の香り壺、境界刺繍、屋根裏まで確認する」
「香り壺と刺繍は確認できます。屋根裏は、宿の安全のため立ち入りを控えてください」
「安全? 組合の規定に従え」
「ここは宿です。安全が崩れたら、規定も守れません」
リュカの言い方は柔らかいのに、扉の隙間は広がらない。検査役が苛立ちを噛み殺すように鼻を鳴らした、その瞬間。
「おはよーう! 検査の皆さま、ようこそ! 席はこちら、舞台はこちら!」
食堂の方から、派手な声が弾んだ。ダーテンハーンが、昨夜のうちに椅子を円く並べ、床に布を敷き、中央に小さな木箱を置いている。木箱の上には、紙で作った王冠と、木の匙が一本。わざとらしいほど堂々としている。
「検査ってことは、見る、嗅ぐ、数える、ですよね? なら、観客がいたほうが公平!」
「ふざけるな」
「ふざけてません! ここは女の宿。怖い顔がずらっと並ぶと、女のお客さまが眠れない。だから——笑ってから嗅ぎましょう!」
ダーテンハーンは検査役の腕を掴まない。代わりに、検査役の足元に自分の外套の裾をそっと置き、踏み出せば引っかかる角度に整える。検査役が一歩出ようとすると、裾がわずかに動き、靴先が止まった。止まったのを、検査役だけが「自分の意志」だと思うような止まり方。
エリは食堂の奥で深く息をした。朝の湯気にキンモクセイの乾花を落とし、急須の蓋を指で押さえる。昨日の蜂蜜は底が見えている。今日は甘さを薄くし、代わりに焼き菓子の端をほんの少しだけ温めた。甘味は刃物みたいに使わない。結び目をゆるめるための、柔らかい道具だ。
検査役たちが食堂へ入ると、すでに宿泊者の女たちが壁際に座っていた。誰も声を出さないが、視線は逃げない。胸の刺繍札が、名前の形をした盾になっている。
ダーテンハーンが木箱の上に立ち、木の匙を杖みたいに振った。
「本日の演目! 『香り壺の中身を当てる男』! 主役は——検査役さま!」
「主役など——」
「主役です! だって一番嗅ぐから!」
検査役の頬がひくりと動いた。帳面持ちが「始めましょう」と小声で促す。検査役は渋々、抱えられた香り壺の蓋を開け、鼻先を近づけた。
「……薄い。古い。混ぜ物がある」
「混ぜ物? それ、何味ですか? ほら、ここで大事なのが——」
ダーテンハーンは客席へ向かって両手を広げた。
「わたしの好きなスイーツ!」
いきなり言われて、女たちが目を見開く。エリの喉が一瞬、冷える。けれどダーテンハーンは続けた。
「言える人だけでいい! 言えない人は、湯気を吸うだけでいい! 名前も、理由も、笑いものにしない!」
掟が、声になって床板を縫い留める。エリは胸の奥のざらつきが少しだけ収まるのを感じた。
最前列の女が、小さく手を挙げた。
「……蜂蜜の焼き菓子」
その声に、別の女が頷く。
「黒糖パン」
第三の女が、口元を押さえながら笑った。
「私は……砂糖衣のアーモンド。昔、嫌いだったのに、今は好き」
言い終えた瞬間、彼女の目尻が濡れた。泣くつもりではなかった涙。エリは盆を持って近づき、湯気の立つ茶をそっと置いた。触れた指先が、刺繍札の端をなぞる。布が体温を吸い、黒糸が艶を返す。
その隙に、エリは作業台の下へ置いた革の記録帳を開いた。ページの端が、誰かの指で何度もめくられた跡を持っている。祖母の字は細く、けれど針の穴みたいに確かだ。
『黒い滲みは、香りが抜けた器を核にして広がる。核は軽く、持ち運べる。壺が空なら、糸は迷う』
エリは息を止めた。黒い滲み——カリムの衣の匂いのしない影。それを広げる核が、壺なら。
そのとき、食堂の灯りがふっと揺れた。昼のはずなのに、蝋燭の火が一瞬だけ暗くなる。検査役の顔が上がり、視線が階段へ走る。
「今のは何だ。屋根裏へ行く」
「屋根裏は——」
リュカが言いかけた瞬間、検査役は歩き出した。
ダーテンハーンが、やけに大げさに転んだ。
「うわっ、床が——滑る! だれだ、床に優しさを塗ったのは!」
検査役の足元に、ダーテンハーンの木箱がころりと転がり、検査役の靴先に当たる寸前で止まった。止まったのは偶然じゃない。木箱の角が、きっちりと床の目に沿っている。誰かが置いたみたいに、整っている。
リュカが黙って木箱を拾い、元の位置へ戻した。戻し方が棚の並べ替えと同じで、隙間が一つも残らない。
「階段は狭いです。転倒したら、お客様の避難路が塞がります」
「避難路?」
「ここは女の宿です。怖い目に遭った人が、音を立てずに逃げられる道を作っています。検査役が倒れたら、道が潰れます」
検査役は言葉を探した。組合の規定で殴るつもりだったのに、宿の安全という薄い布で包まれ、手が出せない。
その瞬間、階段の上から、布が擦れる音がした。ほんの一回。誰かが息を殺して動いた気配。エリの背筋が冷え、けれど顔は上げない。見上げて、相手の影を怖がらせたくない。
ダーテンハーンが客席に向かって、急に声を柔らかくした。
「ねえ、みんな。ここにいるって、言おう。声が小さくてもいい。笑っても、泣いてもいい。ただ、消さない」
女たちが頷き、刺繍札に指を添えた。
「ここにいる」
「今日も、ここにいる」
言葉が重なり、階段の暗がりへ届く。灯りが元に戻り、揺れが止まった。エリは急須の湯気が、いつもよりまっすぐ上がるのを見た。
検査役は喉を鳴らし、帳面持ちへ手を伸ばした。
「……香り壺だけ確認する。刺繍は後日、正式に——」
「後日は、頁番号を揃えてください」
リュカが静かに言う。
「揃えれば、こちらも順に出します」
検査役は睨み返せず、香り壺のひとつを机に置いた。
「これは——置いていく。組合からの見本だ。次までに、これと同じ濃さにしろ」
言い捨てて、外套を翻し、三人は出ていった。玄関の鈴が、硬く鳴る。
扉が閉まったあと、食堂の空気がほどけた。女たちが小さく息を吐き、誰かが笑いかける。その笑いが、からかいじゃないと分かる笑いで、エリの肩の力が抜けた。
ダーテンハーンが机の上の「見本の壺」を指でつついた。
「見本ねえ。じゃあ嗅いでみようか、エリ」
エリは蓋を開け、そっと鼻を近づけた。
花の匂いがしない。
甘いだけで、キンモクセイの輪郭がない。香りの形が、どこか抜け落ちている。
エリは記録帳の一行を思い出し、蓋を閉めた。壺は軽い。持ち運べる。黒い滲みの核になるなら——。
リュカが壺を布で包み、机の角を揃えた。
「今夜は、庭の鉢を見張る」
ダーテンハーンが頷く。
「それと、笑いも見張る。奪われないように」
エリは急須に残った茶を注ぎ、湯気を見つめた。香りが薄いほど、守り方が問われる。針は震えない。だから、縫える。




