第10話 影の刺繍札
朝の食堂は、昨夜の湯気の名残がまだ梁に薄く貼りついていた。窓を開けると運河の匂いが入り、床の木がきゅっと鳴く。エリは椅子の脚を一脚ずつ確かめ、ひとつだけ向きが違うことに気づいた。
椅子の背に、刺繍札がぶら下がっている。白い布に黒糸で、短い呼び名が縫われていた。けれど、その周りだけ空気が冷たい。鼻を近づけても匂いがない。キンモクセイの香り袋の甘さも、台所の焼き菓子の匂いも、そこだけ避けて通っている。
昨夜、糸が屋根裏へ吸い寄せられた。エリの胸の奥が、その刺繍札を見るだけでざらつく。
「これ、誰の……」
言いかけたところで、階段の上から足音が降りてきた。宿泊者の女が髪を結び直しながら、食堂の入口で首を傾げる。
「あら? その札、どなたが使ったの? 昨日は、あなたと、棚を測る男と、芝居の男だけだったでしょう」
エリの手の中で、刺繍札が軽く震えた気がした。屋根裏の窓の灯り。水の皿。短い「言わないで」。それらが、言葉にしようとした瞬間に薄くなる。『誰にも言えない』は、笑いものにせず、静かに抱えておくための言葉のはずなのに。
リュカが静かに現れ、宿帳を机へ置いた。ページの角がきっちり揃っている。彼は鉛筆で罫線をなぞり、そこに残る文字列を指した。
「記録は残ってる」
エリが覗くと、宿帳には確かに、昨夜の欄に刺繍札の呼び名が書かれている。けれど、入口の女はその行を見ても眉を寄せるだけだった。
「書いてあるのに……頭の中が、すべっていく」
リュカは紙を押さえたまま、指先だけで机の位置をほんの少し直した。まるで、ずれた棚板を戻すみたいに。
「消えてるのは紙じゃない。見る側のほうだ」
言い切ったとたん、背後から、わざとらしく咳払いが二回。
「なら、縫い留めればいい!」
ダーテンハーンが、朝から妙に立派な帽子をかぶって飛び出してきた。帽子の羽根が、台所の梁に当たってぺたんと折れた。
「痛っ。……よし。痛いのは今だけ。みなさーん!」
彼は食堂の中央に立ち、両手を口の横に当てた。声が大きい。窓ガラスが小さく震える。
「ここにいる人の名前を呼ぶ時間だ! 女宿仕立所では、他人を笑いものにしない。だから——呼ぶ!」
入口の女がぎょっとして身を引いた。
「大声は掟違反じゃ……」
「笑いものにしないのが掟! 大声は、ただの空気の揺れ!」
ダーテンハーンは刺繍札を指さし、胸を張った。
「カリム!」
言った瞬間、台所の隅の影がわずかに揺れた気がした。エリは息を止める。けれど次の瞬間、ダーテンハーンはくるりと回って、宿泊者たちへ手を差し出した。
「はい、復唱!」
「……か、カリム?」
最初は頼りない声だった。けれど、二人目、三人目と続くうち、音が揃っていく。誰かが笑いかけ、誰かが照れて口元を押さえる。その動きだけで、場が温まった。
リュカが小さく頷き、机の上に刺繍札を置いた。札の端が紙に触れた瞬間、ほんの一滴だけ、甘い匂いが戻る。
エリは台所へ引っ込み、湯を沸かした。金木犀の乾花を指先でほぐし、急須へ落とす。砂糖は市場から消えたままだ。だから今日は蜂蜜を少し、ほんの少しだけ。小皿には、昨夜の黒糖パンの端を薄く切って並べた。
「わたしの好きなスイーツ、って聞かれたら困る人にも、これなら言える」
エリは独り言のように呟き、盆に茶と小皿をのせて食堂へ戻った。
ダーテンハーンは、まだ続けている。
「もう一回! カリム!」
声が揃う。呼び名が空気の中で丸くなり、床板の隙間へ染み込むみたいに落ちていく。屋根裏の方角で、何かが小さく息をした気配がした。
エリは盆を置き、ひとりずつに茶を配った。湯気が上がる。キンモクセイの香りが薄い輪をつくり、鼻先へ届く。
「一口だけ。……それから、札に触れて」
宿泊者の女が半信半疑で刺繍札に指を置いた。匂いのなかった布が、指の熱で少しだけ柔らかくなる。
「あ……」
女の眉がふっとほどけた。
「屋根裏の……窓の灯り。水の皿。あの人、いつも私の靴を、音を立てない場所に揃えてくれた」
言い終えたあと、女は自分の口元を押さえ、笑ったのか泣いたのか分からない顔をした。エリは何も言わず、茶を置き直す。別れのトリガーは、涙だけに頼らない。手放す作法を選べるなら、思い出す作法も選べる。
リュカは宿帳の欄外に、短く線を引いた。誰にも見せびらかさない小さな印だ。棚を整えるのと同じ手つきで、記憶の端を固定している。
ダーテンハーンは最後に、少しだけ声を落とした。
「ここにいる。今日も、ここにいる。——カリム」
全員が同じ調子で復唱した。すると刺繍札の黒糸が、ほんのわずかに艶を取り戻した。エリの胸の奥のざらつきが、ひと呼吸ぶんだけ軽くなる。
そのとき、玄関の鈴が鳴った。昨日の検査役とは違う、硬い鳴らし方。リュカが先に立ち、扉を少しだけ開ける。
差し出された封筒には、香り組合の渦巻きの印。封の蝋は新しい。
「強制検査の通告」
リュカが封を開けずに言う。紙の重さだけで分かるらしい。
エリは急須の湯気を見つめ、刺繍札へ視線を戻した。匂いのない布が、また薄く冷え始めている。守りたい夜が増えたぶん、奪おうとする手も増える。
エリは針箱を開け、一本の針を指先で転がした。震えない。だから、縫える。
ダーテンハーンが小声で言った。
「笑いで足を止めるなら、次はもっと派手にいこう」
リュカは封筒を机に置き、角を揃える。
「派手でも、順序は守る」
エリはうなずき、金木犀茶をもう一杯注いだ。甘い湯気が、今ここを縫い留める。




