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金木犀の鍵と、泣くと記憶が抜ける女宿  作者: 乾為天女


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第1話 金木犀の鍵

 石畳がまだ昨夜の雨を抱え、運河の水面が灰色の空をぼんやり映していた。港町ルリエの朝は、潮と木の箱の匂いが混ざる。弔いの列が通った道も、今は荷車のきしむ音だけが残っている。


 エリは黒い喪の上着の襟を直し、祖母の家でもあった宿の玄関前に立った。小さな看板には「女宿仕立所」と、糸がほどけないように縫い留めた文字がある。扉の前に置かれた籠には、花の名残と、針山がひとつ。籠の底に、鍵束が沈んでいた。


 鍵は思ったより重い。指をかけると、ひとつだけ冷たい。祖母が普段使っていた金属の輪ではなく、布で包まれているせいだろうか。エリが布をほどくと、刺繍の糸で小さく「境界」と縫われていた。


 「……これ、わざとね」


 声にしてみると、玄関の石に響く。誰も答えない。けれど、祖母の手がそこにある気がして、エリは唇の端を引き上げた。泣くのは夜でいい。朝は、鍵を回す。


 錠前が一度、嫌そうに鳴った。二度目で素直に開く。扉がわずかに重く、内側の空気は乾いていた。食堂の椅子はすべて机の上に上げられ、床にはきっちり雑巾の跡が残る。祖母の「終わりを先に片づけておく」癖だ。


 カウンターの上に白紙の宿帳があった。罫線だけが並び、名前の欄は空欄のまま。エリはそこへ手を伸ばしかけて、ふっと止めた。紙の白は、余計なことを聞いてくる。どこから来たのか、何を置いてきたのか、と。


 彼女は針を持つと手が震えない。縫い目の長さも、糸の引き具合も、指が勝手に覚えている。けれど自分のことを問われると、湯気の向こうへ目を逃がす癖だけは、祖母にも直せなかった。


 玄関の鈴が鳴った。振り向くと、郵便屋の女が小さな木箱を抱えて立っている。


 「港の倉庫から。昨日のうちに届いてたけど、弔いがあるって聞いたから、今朝にしたよ」

 「ありがとう。……重かった?」

 「箱より、気持ちのほうがね」


 郵便屋は冗談めかして肩をすくめ、すぐに去った。エリは箱を抱え、台所の作業台へ載せる。蓋の釘を抜くと、古い外套がたたまれていた。黒い毛織りで、袖口は擦り切れている。それなのに、ふわりと甘い匂いが立った。


 キンモクセイの香りだった。季節には早いのに、確かにそこにある。外套の内側へ指を滑らせると、裏地の縫い目に小さな匂い袋が縫い込まれていた。袋は布で二重に包まれ、口は丁寧にかがられている。祖母の縫い方だ。


 エリは匂い袋をほどかず、外套そのものを広げた。すると、裏地の糸が異様に固いことに気づく。指を当てても、しなやかに沈まない。まるで怒って固まった砂糖の塊みたいだ、と彼女は思って、思わず笑ってしまった。


 「砂糖の外套なんて、誰が着るのよ」


 笑いはすぐに消えた。固い糸は、感情を吸う。祖母が言っていた。布と糸は体温と心を飲み込み、結び目を作るのだと。


 結び目をゆるめるには、キンモクセイの香りと、その人の「わたしの好きなスイーツ」がそろう夜が要る。けれど最後にほどけるかどうかは、別れのトリガー――相手の幸せを願って手放す行為――を本人が選べるかで決まる。縫い手は、その瞬間に流れる短い幻を受け止める。涙や息を、指の腹で確かめながら。


 祖母はそれを、客の秘密を笑いものにしないための技だと言った。宿の掟でもある。境界の刺繍が部屋の前に張られているのも、そこを越えて覗かないためだ。


 エリは外套を畳み直し、作業台の端へ置いた。今日は最初の日。祖母の弔いの余韻が消えないうちに、宿は客を迎える。迎えないと、ここがただの空き家になってしまう。


 昼は慌ただしく過ぎた。水差しに水を満たし、茶葉を量り、皿を磨く。階段の手すりを拭きながら、祖母の掌の跡を探してしまうのがいけない。見つからないたびに、胸がきゅっと縮む。


 夕方、窓の外が橙に染まるころ、玄関の鈴がまた鳴った。今度はためらいが混じっている音だ。エリが扉を開けると、女がひとり立っていた。肩までの髪を簡単にまとめ、旅の外套を着ている。濡れたような目で、口元は笑いそうで笑えない。


 「……泊まれますか」

 「女性のお客様だけ。そういう看板なの」

 「わたし、女です。……たぶん、今夜だけは」


 最後の言い方が妙で、エリは目を瞬いた。女は自分で言っておいて、くすっと笑い、次の瞬間に鼻をすすった。泣き笑いが同時に出るときの顔だ。


 エリは返事の代わりに、胸元に小さな刺繍札を差し出した。白い布に、ひとつだけ空欄がある。


 「ここでは、今夜だけの呼び名をつけます。書くのが苦手なら、わたしが縫う」

 「呼び名……。じゃあ……『ミナ』で」

 「ミナ。いいわ。短くて、糸が絡みにくい」


 冗談のつもりで言うと、女はぷっと吹き出した。笑った拍子に涙がこぼれ、慌てて袖で拭く。その仕草が、幼い頃の癖みたいで、エリは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。笑いがあるだけで、宿は宿になる。


 食堂へ通し、暖炉に火を入れる。テーブルの上には、祖母が残した器が並ぶ。エリは金木犀茶を淹れ、湯気の向こうで女の顔色を見た。


 「……ここ、変わってる匂いがする」

 「キンモクセイ。好き?」

 「好き、というより……思い出す。忘れたくないのに、忘れたい匂い」


 女はそう言って、また笑った。笑い方が、喉の奥でつかえている。エリは針山を手元に置き、刺繍札に『ミナ』を縫い始めた。針は迷わず進む。糸を引くたびに、女の肩がほんの少し下がる。


 刺繍札を胸に留めると、女は息を吐いた。


 「じゃあ、わたしの番。……聞いていい?」

 「何を」

 「あなたの名前」

 「宿帳に書くから、後で」

 「逃げた」


 女が指摘した瞬間、エリは湯気の向こうへ視線を逃がした。自分でも驚くほど素直な動きだった。女は声を上げて笑い、すぐに「ごめん」と小さく言う。


 「ここでは、秘密を笑いものにしない……んだよね」

 「うん。だから、笑うなら自分のことだけ」


 エリが言うと、女は胸の刺繍札を指でなぞった。糸が光る。ほんの一瞬、外套の固い糸と同じ硬さが、空気に混じった気がした。


 エリは立ち上がり、台所へ行った。棚の一番上の瓶を開ける。祖母が残した蜂蜜だ。小麦粉を混ぜ、薄くのばし、焼き菓子を作る。甘い匂いが火の熱に乗って広がると、女の目が少しだけ柔らかくなった。


 皿に載せて戻すと、女がぽつりと言った。


 「わたしの好きなスイーツ……蜂蜜の焼き菓子」

 「今、言えたね」

 「言えるときと、言えないときがあるの。……今日は言えた」


 香りと甘味がそろう。キンモクセイの香りが茶の湯気に混じり、蜂蜜の甘さが舌に残る。エリは外套を食堂へ持ってきて、椅子の背に掛けた。固い糸を指先でつまむ。


 糸が、ほんのわずかに、ゆるんだ。


 結び目がほどける音はしない。ただ、指の腹に伝わる硬さが変わる。砂糖の塊が、ぬるま湯でふやけるみたいに。


 その瞬間、糸から短い幻が流れた。火の揺れに重なって、別の光景が差し込む。白い布の上に、丁寧な手で名前が縫われていく。『エリ』。自分の名の刺繍だ。しかも、祖母の縫い方ではない。少しだけ癖が違う。針を持つ手が、知らないはずなのに、なぜか懐かしい。


 エリの喉がきゅっと鳴った。涙が出そうになり、慌てて笑おうとする。けれど、笑いの前に女が言った。


 「……ねえ。ここ、変だよ。あったかいのに、怖い」

 「怖いなら、今夜だけでいい。朝になったら、港へ出て、船に乗ればいい」

 「それが、できたら、ここに来ない」


 女は蜂蜜菓子を半分だけ齧り、残りを皿に戻した。甘さに負けないようにしているみたいだ。エリは茶を注ぎ足し、黙って待った。別れのトリガーは、縫い手が押すものじゃない。本人が選ぶものだ。


 しばらくして、女が口を開いた。


 「置いてきた人がいる。……その人の幸せを願って手放せたら、わたし、ここから出られる?」

 「出られる。結び目が外れたら、明日の匂いがちゃんと入る」


 女は笑った。今度は泣き笑いじゃない。小さく、まっすぐな笑いだ。


 「じゃあ……言う。『あなたが、あの人の朝を邪魔しませんように』」


 言葉が落ちた瞬間、外套の糸がふっと軽くなる。結び目がひとつほどけ、女の肩から力が抜けた。エリは針山を握りしめ、幻の余韻を受け止める。息が白く見えるほど、胸が冷えたあとに、じんわり温かさが戻ってきた。


 女は立ち上がり、刺繍札を胸に押さえて頭を下げた。


 「誰にも言えない話を、ここでは言わなくていい。……それだけで助かった」

 「言わなくていい。でも、言いたくなったら、縫っていい」


 エリが返すと、女は小さく頷き、客室へ向かった。部屋の前には境界の刺繍が張られ、扉が静かに閉じる。


 エリは食堂に残り、外套をもう一度広げた。幻の中で見た『エリ』の刺繍が、まだ目の裏に残っている。彼女は外套の縫い目を確かめ、ふと、裏地の端に小さな丸い焦げ跡を見つけた。


 指輪の跡のように、きれいな円だった。


 エリは息を止めた。焦げ跡に触れると、糸が少しだけ痛む。誰かが、別れを選ぶ前に、ここへ押しつけたものがある。笑えない匂いと、甘い匂いの間に、金属の冷たさが挟まっている。


 外で運河の水が鳴った。夜が深くなる。


 エリは白紙の宿帳を開き、最初の一行に、針を置くように文字を書いた。


 『ミナ 今夜だけ』


 そして、名前の欄の余白に、小さく自分の名も書き添えた。書いた瞬間、指先が少し震えた。針なら震えないのに、紙はまだ慣れない。


 それでも、宿の灯りは消えなかった。



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