第36話 隠れ家/日常
隠れ家に着いたのは、
昼を少し過ぎた頃だった。
車両が止まり、
エンジンが切れる。
そのあとに残る静けさが、
基地とはまるで違う。
風の音。
木の軋む音。
遠くで鳥が鳴いている。
久遠悠真は、
車を降りた。
足元の土が、
わずかに沈む。
舗装されていない感触。
それだけで、
戦場じゃないと分かる。
「はいはい、
全員中入って」
扉の前に立っていたのは、
朝霧香織だった。
全員が中に入ると、
香織は何も言わずに扉を閉め、
鍵をかける。
その一連の動作が、
あまりにも自然だった。
「荷物は適当に置いて」
「昼は軽くするから」
返事を待たず、
キッチンへ向かう。
久遠は、
無意識に奥を見る。
澪が、
窓際に立っていた。
一瞬、
言葉を失う。
髪が、
明らかに綺麗だった。
さらりと落ち、
光を受けて揺れている。
絡まりもなく、
艶がある。
顔色もいい。
以前のような、
“削れた感じ”がない。
久遠は、
自分が立ち止まっていることに、
少し遅れて気づいた。
「……澪」
呼ぶと、
澪はすぐに振り向いた。
反応が早い。
だが、
その動きは以前より柔らかい。
「おかえりなさい」
声は静か。
けれど、
久遠を見た瞬間、
ほんの少しだけ視線が揺れた。
久遠は、
考える前に口を開いていた。
「……別人みたいだな」
一瞬、
空気が止まる。
澪が、
言葉を失う。
「え……」
「出た」
間髪入れず、
声が飛ぶ。
二階堂征史だった。
「それさ」
一拍。
「場合によっては、
結構失礼だからな?」
久遠が、
一瞬だけ目を瞬く。
「……え」
「いや、
澪に向けて言う分には
今のところセーフだけど」
「使いどころ、
間違えるなよ」
征史は肩をすくめる。
澪は、
慌てて首を振った。
「い、いえ」
「失礼だとは、
思っていません」
だが、
声が少し上ずっている。
久遠は、
そこでようやく事態を理解した。
「……違うんです」
言葉が、
少し早くなる。
「悪い意味じゃなくて」
「その、
前より……」
一拍。
「……綺麗に、
なったなって」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「おい」
「今の聞いたか」
「久遠、
ついに言ったぞ」
征史が、
面白そうに声を張る。
「やばいな」
「これはやばい」
「記録に残した方がいい」
「……うるさい」
久遠が、
珍しく即答した。
葛城が、
小さく息を吐く。
「言い直しとしては、
最悪ではない」
「最良でもないが」
「どっちなんだよ」
征史が笑う。
霧島が、
静かに口を開いた。
「……逃げずに、
言い切った」
一言だけ。
それで、
場の温度が少し変わる。
澪は、
完全に顔を伏せていた。
耳まで、
はっきりと赤い。
「……その」
小さな声。
「ありがとうございます」
逃げない。
だが、
正面からも受けきれない。
香織が、
キッチンから顔を出す。
「はいはい」
「これ以上やると、
澪が溶ける」
「野郎ども、
その辺にしときな」
「了解」
征史が、
即答する。
そこへ、
端末を抱えた人物が現れた。
二階堂皐だ。
「……到着早々、
騒がしいですね」
淡々とした声。
「隠れ家の騒音レベル、
一気に上がりました」
「歓迎の証だ」
征史が言う。
皐は、
澪を見る。
ほんの一瞬。
「……外見、
安定してます」
「血色も、
問題なさそう」
「分析は後」
香織が即座に切る。
「澪、
座りな」
当たり前の口調。
澪は、
一瞬だけ久遠を見る。
確認する視線。
久遠が、
小さく頷く。
「……はい」
そう答えて、
ソファの端に腰を下ろす。
動作は静かだ。
だが、
以前より柔らかい。
久遠は、
一人分空けて隣に座る。
距離はある。
だが、
さっきより近い。
征史が、
にやにやしながら言った。
「しかしまあ」
「こうして見ると、
普通だな」
「何がだ」
霧島が返す。
「澪が」
霧島は、
少し考えてから言う。
「……今は、
そうだな」
澪が、
戸惑ったように久遠を見る。
「……普通、
でしょうか」
久遠は、
少しだけ考えてから答えた。
「今は」
澪の視線が、
久遠に留まる。
今度は、
逸らさない。
だが、
何も言わない。
香織が、
テーブルにスープを並べる。
「はい、
昼ごはん」
「腹が減ってると、
余計なこと考えるから」
“余計なこと”。
誰も、
それが何かを言わない。
だが、
全員が分かっている。
今日は、
まだ何も起きていない。
それだけで、
この時間には価値があった。




