第34話 暫定配置
基地の朝は、
夜よりもうるさい。
足音。
金属の擦れる音。
扉の開閉。
呼名。
確認。
復唱。
それらが全部、
「何も起きていない」ふりをするために動いている。
久遠悠真は、
食堂の端の席で、
冷めたコーヒーを見ていた。
味は分からない。
匂いも、
頭の奥で薄くなる。
身体だけが、
まだ戻りきっていないと告げている。
肺が浅い。
指先が遅れる。
寿命の焦げ。
神経の焼け。
……引き受けすぎた。
分かっている。
分かっていて、
その言葉を置く場所がない。
戦場では、
反省は後回しにできる。
基地では、
後回しにした分だけ、
静かに圧が増える。
「久遠」
呼ばれて顔を上げると、
葛城が立っていた。
いつもと同じ顔。
だが、
目だけが一段硬い。
「参謀部。今すぐ」
命令ではないように聞こえる。
だが、
拒否の余地がない種類の言い方だった。
久遠は立つ。
椅子が床を引っかく音が、
妙に大きく響いた。
参謀部の廊下は、
白が違う。
病室の白は、
命を保つための白だ。
ここは、
責任を保つための白。
壁の掲示板には、
昨日の作戦評価の概要が貼られている。
市街地防衛:成功
敵性個体:自壊
共鳴事故:軽微
――軽微。
その単語を見た瞬間、
胃の奥が一瞬だけ冷えた。
真実が消されるとき、
最初に軽くなるのは言葉だ。
扉の前で止められる。
警備兵が視線だけで身分を確かめ、
無言で通す。
中は静かだった。
机。
端末。
紙束。
印。
作戦の血は落ちている。
代わりに、
別の赤が増えている。
「第七特別部隊、久遠悠真」
声は、
久遠がよく知る上官のものではなかった。
中年とも若年ともつかない男が、
机の向こうに座っている。
階級章は目立たない。
だが、
机の上の権限は目立つ。
書類の端に、
ひとつの署名が見えた。
鷹宮。
それだけで、
この場がどこに繋がっているか分かる。
「座れ」
久遠は従う。
男は名乗らない。
名乗る必要がない側の人間だ。
「今回の件は、
暫定評価で処理する」
暫定。
その言葉が、
ここでの結論だった。
「成功は成功だ」
一拍。
「だが、
成功の形が悪い」
評価ではない。
分類だ。
久遠は、
何も返さない。
「現場判断を否定する気はない」
「ただし、
現場判断に依存する運用は、
長く持たない」
それは、
個人ではなく制度の話だった。
「だから、
配置を変える」
男は紙束を一枚抜き、
机の上に置く。
表題だけで、
空気が締まる。
――暫定配置命令書。
久遠は、
文字を追う。
配置先:第七特別部隊
役務:前線支援(限定)
条件:作戦参加は都度承認
監督:鷹宮(指揮統制)
付記:報告様式の統一
付記:単独行動を禁ず
最後の一行。
当該隊員の対外接触は、
指定担当を通すこと。
指定担当の欄。
二階堂。
久遠は、
そこを一度だけ見て、
それ以上考えなかった。
二階堂なら、
現場を分かっている。
それだけの理由で、
納得できる。
「不満は」
男が言う。
「ありません」
即答だった。
「いい」
それ以上、
掘り下げない。
「署名しろ」
久遠はペンを取る。
名前を書く。
紙が、
人を基地に固定する。
血ではなく、
文字で。
「以上だ」
廊下に出ると、
空気が少し冷えた。
葛城が壁際に立っている。
「……どうだった」
「暫定配置です」
「そうか」
それ以上、
聞いてこない。
聞けば、
同じ場所に立つことになる。
久遠は歩き出す。
視界の端に、
医療棟の案内板が見えた。
白い矢印。
白は、
どこへでも繋がる。
だが、
繋がってはいけない場所もある。
久遠は、
矢印を見ないふりをして、
角を曲がった。
暫定配置。
それは自由ではない。
だが、
まだ閉じ込められてもいない。
判断が先送りにされた、
その隙間だけが、
今の居場所だった。




