第31話 病室の外側
基地の夜は、
静かだった。
戦場の音はない。
警報も鳴っていない。
それでも、
眠れない。
久遠悠真は、
廊下の自販機の前に立っていた。
灯りは白い。
壁は白い。
床も白い。
ここは、
血の跡を消せる場所だ。
紙と規定で、
人を片づけられる場所だ。
缶の落ちる音がして、
悠真は手を伸ばす。
冷たい。
指先が、
自分のものみたいに遅れる。
引き受けすぎた反動が、
まだ抜けきっていない。
……引き受けすぎた。
それは、
自覚している。
あの時も。
限界だと分かった瞬間があった。
肺が足りない。
神経が焼ける。
寿命が溶ける。
重なって、
重なって、
重なって。
それでも、
止められなかった。
止めたくなかったわけじゃない。
止める言葉を出せば、
その瞬間に崩れるものが見えた。
戦線。
街。
誰かの逃げ道。
そして、
もう一つ。
病室。
自販機の横を、
足音が通る。
軽い。
だが、
完全に気配を消しているわけでもない。
「まだ起きてんのか」
二階堂がいた。
制服は崩していない。
だが、
首元の留め具だけが外れている。
悠真は、
缶を握ったまま頷いた。
「……眠れなくて」
「同じだ」
二階堂は、
隣のボタンを押す。
甘い匂いがした。
熱い缶が落ちる。
指で転がして温度を確かめる仕草が、
妙に生活っぽかった。
「報告、終わった?」
「……一応」
「一応、か」
二階堂は笑わない。
笑いどころじゃないと分かっている顔だった。
「まあ、
終わったことにしないと
次に回せねえもんな」
悠真は、
それに返せなかった。
終わったことにする。
その言葉が、
ここでは一番正しい。
沈黙が落ちる。
廊下の奥で、
巡回の靴音が遠ざかる。
二階堂が、
缶を持ったまま壁にもたれる。
「……なあ」
声が落ちる。
「昼間の話」
悠真の肩が、
わずかに硬くなる。
二階堂は、
それに気づいたようで、言い方を変えた。
「いや、
“昼間の件”じゃねえな」
一拍。
「お前の妹のこと」
悠真は、
視線を上げない。
妹の話を出されるだけで、
胸の奥が狭くなる。
「……何で」
「別に、
探ったわけじゃねえよ」
二階堂は、
先に釘を刺すように言った。
「第七に来る前に、
書類のどっかで見た」
「病院にいるって、
そういう最低限のやつ」
久遠は、
小さく息を吐いた。
最低限。
それだけでも、
ここじゃ武器になる。
「……名前は」
二階堂が、
そこで止めた。
「言わなくていい」
即答だった。
近づきすぎない距離。
その距離の取り方が、
逆に刺さる。
久遠は、
缶の冷たさを手のひらで確かめる。
「……病院にいます」
それだけ言った。
分かっている。
それ以上言えば、
勝手に物語が作られる。
制度の物語。
保護の物語。
協力の物語。
そして、
交換の物語。
「……あのさ」
二階堂は、
少しだけ迷う。
迷ってから、
口にした。
「お前さ」
「戦場で、
妹のこと考える?」
直球だった。
悠真は、
一拍置いて答えた。
「……考えないようにしてます」
「だよな」
二階堂は頷く。
「考えたら、
終わる」
その言い方は、
知っている人間のものだった。
「……でも」
悠真は、
言葉を続けてしまう。
止めようとしたのに、
出てしまった。
「考えないようにしてても、
結局」
「最後に残るのは、
そこなんです」
二階堂は、
缶を握る指に力を入れた。
ぎし、と小さな音がする。
「……今日の戦場でも?」
「今日、じゃないです」
悠真は言った。
「……ずっと」
ずっと。
それが、
口に出た瞬間。
自分でも、
少し驚いた。
二階堂は、
すぐには何も言わない。
その沈黙が、
妙にありがたかった。
「……病院ってさ」
二階堂が言う。
「基地より静かなはずなのに、
静かじゃねえよな」
悠真は、
顔を上げた。
二階堂が、
こちらを見ていない。
廊下の奥。
見えないどこかを見ている。
「機械の音とか、
紙の音とか」
「大丈夫って言葉とか」
一拍。
「全部、
落ち着くための音なのに」
「落ち着かねえ」
悠真は、
何も返せない。
その言い方は、
行ったことのある人間のものだった。
「……二階堂」
呼び方を迷う。
苗字だと、
隣にいる“妹”の顔が浮かぶ。
「……皐」
二階堂が、
横目で一瞬だけ見る。
驚いたような顔はしない。
ただ、
受け取った。
「……皐は」
悠真は言う。
「……病院、行くんですか」
二階堂は、
笑いそうになって、やめる。
そのやめ方が、
軽いのに重い。
「行くよ」
「行くけど、
行くたびに思う」
一拍。
「俺がそこに立ってる理由って、
何なんだろうなって」
悠真の喉が、
少し詰まる。
同じだ。
自分も、
病室の前で同じことを思う。
立っている理由。
そこに立たせる理由。
それを、
誰が決めているのか。
「……妹さん」
悠真が言いかけた瞬間、
二階堂が先に遮った。
「“妹がいる”って話なら、
もう分かってるだろ」
軽口に見せている。
だが、
線を引くための口調だった。
「俺が言えるのは、
それ以上じゃねえ」
「……ただ」
一拍。
「兄ってさ」
悠真の背中が少しだけ硬くなる。
二階堂は続ける。
「何かしてる間だけ、
安心できる」
「動いてる間だけ、
考えなくて済む」
「止まると、
全部くる」
悠真は、
ゆっくり頷いた。
「……はい」
二階堂が、
悠真の方を見た。
「お前、
今日……いや」
また言い直す。
「この数日」
「ずっと、
止まれてねえだろ」
悠真は、
否定しなかった。
止まれない。
止まった瞬間、
病室の白さがくる。
妹の顔がくる。
自分が何をしているのか、
何を支払っているのか、
何を支払わされているのか。
全部くる。
「……皐」
悠真は言う。
「俺」
言いかけて、
止まる。
二階堂は、
待たない。
だが、
急かさない。
その中間の沈黙が、
ここに残った。
「……俺」
悠真はもう一度言う。
「妹の検査が、
前倒しになったって」
「……通知が来て」
二階堂の目が、
わずかに細くなる。
同情じゃない。
理解でもない。
ただ、
状況を受け取る目。
「前倒しって、
嫌な言葉だな」
二階堂が言う。
「はい」
悠真は頷く。
「……でも」
一拍。
「何がどう嫌なのか、
説明できないんです」
「嫌だって言うと、
ただの我儘みたいで」
言葉にした瞬間、
胸が少しだけ軽くなる。
その軽さが、
逆に怖い。
二階堂は、
缶を口に運ぶ。
熱いはずなのに、
一気に飲んだ。
「……お前さ」
声が低くなる。
「それ、
今まで誰かに言った?」
悠真は首を振る。
「……言ってないです」
「だろうな」
二階堂は、
そこで初めて笑った。
軽い。
いつもの二階堂の笑いに近い。
だが、
ほんの少しだけ固い。
「……なんで今、
俺に言ったんだ」
また、
同じ質問に戻る。
悠真は、
視線を落とした。
分からない。
分からないまま、
言ってしまった。
「……すみません」
二階堂が、
即座に手を振る。
「謝るな」
「聞きたくなかったって意味じゃねえ」
一拍。
「むしろ、
困るって意味だ」
「困る……?」
「困る」
二階堂は繰り返す。
「俺、
そういうの聞くと」
「軽く戻れなくなる」
久遠は、
息を止めた。
軽く戻る。
任務に戻る。
次の出撃に戻る。
いつもの顔に戻る。
それが、
ここでは必要なことなのに。
「でも」
二階堂が言う。
「それでいいんじゃねえの」
言い切らない。
断言もしない。
ただ、
自分に言い聞かせるように落とす。
「……久遠」
呼び方が変わる。
苗字じゃない。
距離が一歩だけ近づく。
「俺さ」
一拍。
「お前の妹のこと、
守るとか助けるとか」
「そういうでかいこと、
言えねえ」
「言ったら、
嘘になる」
悠真の喉が、
わずかに震える。
嘘。
この国は、
嘘を言わなくても嘘になる。
語らないだけで、
結論が出来上がる。
「……でも」
二階堂は続ける。
「お前が
“そこ”を理由に立ってるなら」
「俺は、
その理由ごと
笑いもんにはしねえ」
それは、
誓いじゃない。
正義でもない。
ただ、
態度だった。
久遠は、
缶を握る。
冷たさが、
少しだけ戻ってきた。
「……ありがとうございます」
「礼言うな」
二階堂が言う。
「そういうの、
言われると余計困る」
少し笑って、
すぐに真顔に戻る。
「あと」
一拍。
「お前さ」
「妹の名前、
俺に言うな」
久遠は、
目を瞬いた。
「……はい」
「知らなきゃ、
守れる距離がある」
二階堂は、
そこで言葉を止めた。
守れる距離。
妙な言い方だ。
だが、
変に踏み込まないための言葉だと分かる。
「……皐」
悠真は言う。
「俺、
これからも」
「妹のことを考えないようにして、
それでも最後に考えて」
「……たぶん、
ずっと同じです」
二階堂は、
少しだけ口元を歪めた。
笑いでもない。
苦さでもない。
その中間。
「同じでいい」
淡々と。
「変えようとすると、
余計壊れる」
廊下の遠くで、
また巡回の音がする。
二階堂が、
背中を壁から離した。
「戻るか」
「……はい」
二人で歩き出す。
並んだ影が、
白い床に伸びる。
その途中。
二階堂が、
ふと足を止めた。
振り返らないまま言う。
「久遠」
「俺、
明日もいつも通りにする」
「いつも通りに、
軽口叩く」
「それでいいか」
久遠は、
一拍置いて頷いた。
「……それが助かります」
「だよな」
二階堂は笑う。
軽い。
でも、
軽すぎない。
「じゃ、
決まり」
歩き出す。
久遠は、
その背中を追う。
話してしまった。
取り返しがつかないほどではない。
だが、
何も変わっていないとも言えない。
それが良いのか、
悪いのか。
まだ分からない。
ただ、
廊下の白さが少しだけ違って見えた。
それだけだった。




