93 水と知恵の神様の滝にて 乙女舞による地脈浄化の儀式(イラストあり)
「ちょっと待っててね。ボク、巫女舞でここの地脈を正さないと」
「どこに行くの?」千剣破が尋ねた。
「クニちゃ、どこ?」
『あの山の頂上付近かの?』
「よし、じゃあ行ってくるね」
「待って、私も行っていい?剣奈の巫女舞、お母さんみたいなぁ」
一人で行こうとする剣奈に慌てて千剣破が言った。
そして剣奈である。「うわぁ。お母さんにボクのカッコいい姿を見てもらえるぞぉ」。心がぴょんぴょん跳ねていた。チョロ剣奈の面目躍如である。
「うん。じゃあ一緒に行こっか。お祖母ちゃんちょっとだけまっててね」
「なんでうちだけ留守番することなってんの。当然いくで」千鶴が憮然として言った。
「うん!」
「お母さんとお祖母ちゃんにボクのカッコいいとこを見てもらえる!」。テンションあげみ、いやもはやバイブス全振りの剣奈である。左手に千鶴、右手に千剣破。両手に花である。
いや、剣奈落ち着け。久志本家親娘三代そろい踏みなだけである。
「うわぁいい景色。草原が清々しいね。むこうに青い海!すっごく綺麗」
剣奈はウキウキ気分で潮泉山の山道を上っていた。剣奈一人ならほぼ一瞬で走破する道のりである。
「ふんふんふん♪」
剣奈は母と祖母に手を繋がれスキップをしながら上機嫌である。
「これ剣奈。落ち着きなさい。転んだらどないすんねん」
千鶴は落ち着きのない剣奈をみて苦笑しながら言った。
「はぁい」
剣奈は返事をしたものの頬は緩みっぱなしである。そうして楽しく山道を登っていくと大阪湾と平野が見渡せる小さな空き地に出た。現世では大阪・難波のビル群が見渡せる絶景ポイントである。
剣奈たちはそこから細道を抜けて水の音がする方向を目指した。来国光の目的地は現世で宝塚厳島弁財天不動の滝とよばれる場所である。かつてここに山岳信仰の御嶽神社があったらしいが定かではない。
弁財天は我々にとって非常になじみの深い神様である。インドの神様サラスヴァティーがもともとの由来である。 सरस्वतीとは水を持つものであり、そこから水と豊穣の女神としてまつられる様になった。
サラスヴァティーの聖なる川はサラスヴァティー自身の化身とみなされている。川には様々な叡智が流れている。そのことからサラスバーティーは知識、知恵、学問、
芸術(音楽・文学・美術など)、言葉・言語、文化を司る神様といわれている。また川は豊穣をもたらすことから豊穣の神様とも呼ばれる。
日本神話では市寸島比売命が同様の水の神様であり、サラスヴァーティ様=弁財天様=市寸島比売命との解釈もある。ちなみに我々の知る弁財天は女性と財の神様でもある。これは弁財天が七福神の中でただ一人女性であることから女性らしさが強調され、やがて女性守護に結び付いた。財については弁財天の「財」の字からの連想である。あるいは才能恵まれるものは財を得るとの連想という説もある。
余談ついでにもう一つ。宝塚の弁財天の滝は武庫川に流れる。武庫川は兵庫県の丹波篠山に端を発する。牡丹鍋と黒豆で有名な緑豊かな地である。そこから三田、神戸、宝塚をへて西宮と尼崎の境を流れ、最後は大阪湾にそそぐ。全長六十六kmの川である。
名前の由来は古く『日本書紀』や『万葉集』にさかのぼる。名前の由来は諸説あるが武器庫があったからという説、六つの甲を埋めたという説もあり興味深い。ちなみに神戸で有名な六甲山は六甲山にも通じる。奈良時代には武庫山と呼ばれていた。六甲山の名前は当て字であり室町以降にその字で呼ばれた。しかし武庫山の名はその後も残り、『摂陽群談』(江戸時代の地誌)には武庫山と六甲山の両方の名称が記載されている。
この武庫川、かつては暴れ川の異名をとった。たびたび氾濫を繰り返し多くの被害をもたらしたからである。大正時代から昭和初期にかけて大規模な治水工事が行われ、その後は穏やかな川となった。
宝塚の温泉群はこの穏やかな川の岸に広がっている。金泉と銀泉のいい湯である。千鶴が子供のころ親に連れられてよく宝塚ファミリーランドに行った。温泉を楽しみ、動物園を楽しみ、最後に少女歌劇を楽しんで休日を満喫した。
千鶴、そして千剣破にとって思い出深い武庫川の岸辺である。長く親しまれた宝塚ファミリーランドは、老朽化のため2003年に92年間の歴史を終えた。今は宝塚歌劇の大劇場・宝塚バウホールを残すのみである。
余談が長くなった。剣奈の物語に戻ろう。
剣奈たちは山道を歩き続けた。剣奈は有頂天になっていて気づかないのだが、実は千剣破と千鶴はヘロヘロになっていた。元気な剣奈を見て「子供は元気やなぁ」と半ばあきれていた。母として、祖母として、そして女のプライドから疲れたそぶりは一切見せなかったのだが。
水の音が大きくなった。水しぶきが飛んできた。疲れた千剣破と千鶴にとってまさに恵みの清涼だった。
「すがすがしいところやねぇ」千鶴がほっと息をつきながら言った。
「こんな清らかそうなところに邪気がいるの?」千剣破が尋ねた。
『うむ。清らかな場所にこそ邪気は潜む。邪気がそこを汚したいからじゃ。今回たまたま邪気の方からしっぽを出してきおったのは僥倖じゃった。気づかず放置しておったならいずれ武庫川を暴れ川として大きな水害をもたらしておったやもしれぬ」
千鶴はぞっとした。宝塚、伊丹、西宮、尼崎は低地である。もし武庫川が氾濫していたとすれば非常に大きな被害を出したことだったろう。久志本家自体は高台にあるので水害は免れるだろう。しかし高台から水没した街など見たくなかった。今回のお茶会が人知れずこの近隣にとって大きな貢献であったことをしみじみ思った。それを知るのは千鶴と千剣破の二人だけなのであるが……。
ん?剣奈?もちろん気づいてなどいない……
さて三人はかなり時間をかけて宝塚厳島弁財天不動の滝つぼ近くにたどり着いた。剣奈ひとりであれば、剣気を使って一瞬でたどり着けたのだが、それは言うまい。
「水しぶきが清々しいね。ここ」
剣奈はすがすがしい滝のマイナスイオンを浴びながら機嫌よく言った。
『うむ。山からの水、地からの湧水、地脈の流れ、それらが交差する清らかな地じゃよ』
「あいかわらず邪気はボクたちの大切な場所に居座ってるんだね。ちょっと腹立つよ。ぷんぷん」
『そうじゃの。それが邪気じゃ。実にたちが悪い』
「だよねー」
『さて剣奈、 山の神、火の神、この滝に住まえる水の神、さらに川の荒ぶりを鎮める神に呼びかけるぞ』
「はい」
『最後に祓戸の四柱神に祈りをささげて邪気を祓う。地脈を正すのじゃ』
「はい」
『まずは身を清めよ。そして四方拝を起うのじゃ。そして乙女舞、巫女舞を舞え、剣奈よ』
「はい」
地脈を正す儀式を前に殊勝な剣奈である。剣奈は滝坪に行き上半身裸になった。ほんのりと胸が膨らんでいるのが二人には見えた。
剣奈は滝の水で水垢離を行い身を清めた。水に濡れる剣奈の白い裸身。神秘的な眺めだった。千剣破と千鶴はまるで危機感無く服を脱ぐ剣奈にどぎまぎしたが、幽世には人はいないからよいかと考え直した。
裸身の剣奈はタオルで身体の水を拭った。そしてリュックから新しい服を取り出して着衣した。
身を清めた剣奈は滝に向かって深く一礼した。続けて北東南西に向かって深くお辞儀を繰り返した。最後に再び滝に向かって二度深いお辞儀を繰り返した。
剣奈は両手を胸の前にあげて柏手を二回打った。そして手を合わせなおして瞳を閉じた。剣奈は心で地域を守ってくださっている感謝の念をささげた。剣奈は瞼を開け、再び深く一礼した。
四方拝を終えた剣奈は目を伏せてしばらく佇んだ。静寂の中で静かにたたずむ剣奈はとても美しかった。剣奈の周りに神聖な雰囲気が醸し出された。
シュルッ
剣奈は静かに来国光を抜いた。そしてゆっくりと来国光の切っ先を天に向けて祈りを捧げた。しばしの静寂。そしてゆっくりと剣奈が動き始めた。剣奈はゆっくりと時計と同じ向きに身体を回転させ始めた。剣奈は緩やかに舞いながら螺旋の動きで来国光をゆっくりと下げていった。場の空気が清められ浄化されていった。
やがて剣奈は空中に来国光を押し当て軽快に動かしていった。千剣破と千鶴は不思議な所作だと感じた。あぶり出され、大気に漏れ出した邪気を滅しているのだとは二人は気づかない。ただ厳かで神聖な気配を感じ、二人は深く頭を下げた。誰かに言われたわけではない。そうしなければならない気持ちになったのだ。
やがて剣奈の朗々とした声が聞こえてきた。二人が目を開くと来国光が地面に突き立てられているのが見えた。剣奈は右手で来国光の柄を握り左手を柄頭に添えていた。
◆乙女舞による地脈浄化の儀式
剣奈の声が響く。幼くも高く澄み切った厳かな声だった。
掛けまくも綾に畏き天土に
神鎮り坐す
最も尊き 大神達
ことわけて
大山祇命
迦具土命
市寸島比売命
素盞嗚命
瀬織津比売命
速開都比売命
気吹戸主命
速佐須良比売命
の大前に
慎み敬い 恐み恐み白さく
今し大前に参集侍れるものどもは
高き尊き御恵みをかがふりまつりて
辱み奉り尊み奉るを以って
今日を良き日と択定めて、
禍事の限を
祓清めむと、
根の国、地のもとに持ち込まれたる
諸々の禍事・罪・穢・邪の気、有らんおば、
持ち去りて
祓ひ給ひ 清め給えと白すことを、
聞こしめせと
恐み恐み白す
剣奈が白黄の輝きに包まれた。来国光が突き刺された地から輝きが漏れ放たれた。来国光の刀身全体から、地中に神気の光が放れた。そしてしばらくして輝きがおさまった。
この場所に巣食う邪気は完全に浄化されたのだった。
剣奈は来国光を地面から抜いた。そして滝に向かって来国光を捧げて深く一礼した。剣奈は来国光を右腰に添え浅く礼を行い、再び滝つぼに向かって歩き出した。
剣奈は滝つぼにつくと水をおし頂いた。手にすくった水を何度も来国光に注ぎかけた。刀身から川原に水がしたたり落ちた。来国光と彼から流れ落ちた水滴が陽光に反射してキラキラと輝いた。
剣奈はリュックから布を取り出し来国光を丁寧に拭き鞘に収めた。剣奈は「おうちに帰ったらすぐクニちゃの柄を外し丁寧にお手入れしなきゃ」とふと思った。来国光は自らの剣気の力により水に濡れようが刀身はさびることはない。しかし来国光は剣奈の気持ちが伝わって心が熱くなった。
振り返った剣奈は笑顔で二人を見た。慈愛のほほえみだった。剣奈はもはや人の身ではない。そう思える神々しさだった。
風が吹いた。
「ん♡」
剣奈の眉根が一瞬きつく寄せられた。剣奈の身体が淡い白黄の靄に包まれた。そして光の靄はすっと消えた。神の加護が剣奈の身体に浸透していったのである。
「あれ?すっきりした。なんか体が軽い。元気もりもりフルパワーだよ」
神秘的な雰囲気が霧散した。どや顔の剣奈がいた。厳かな空気をすべてぶち壊した剣奈がそこにいた。いつものことである。