86 千鶴の悲哀と託した願い 千剣破の名前の意味
「おばあちゃんおはようございます」
「はいはいおはよう。剣人はかわいいねぇ。千剣破の小さいころそっくりやわ」
ドキリとする千剣破である。
剣人の祖母、久志本千鶴は自立した女性としての人生を目指して歩んできた。
千鶴の若かりし頃はまだ女性は学校を卒業したらすぐに嫁に行き、専業主婦として子を産み、育て、家庭を守るという考えがごく普通であった。
しかしまたその時代は、女性が男性に従属するのではなく、同等の権利のもと、自立した人生を歩むべきとの考えが生まれ、広がっていった時代でもあった。
千鶴は就職し懸命に頑張った。早朝から出社し、部署のみんなの机を拭き、花瓶の水を変え、みんなが出社すればみんなの好みの温度でお茶を入れた。
いつも笑顔を絶やさず、営業成績もよかった。
頑張っていたつもりであった。いい成績を上げているつもりだった。部署をいい雰囲気にできていると思っていた。上司から認められていると思っていた。
しかし給与は上がらなかった。さえない成績の同期男子は給与がぐんぐん上がったというのに。
頑張ってるのになぜ?成績もあげているのになぜ?千鶴は不思議に思っていた。
千鶴の受注した仕事は人事上すべてほかの男子の成果になっていることに気が付いたのはずっと後だった。
千鶴はサポートとしての評価しかもらえていなかった。どれだけ頑張っても認められている気がしない、給与も上がらない。
そんな閉塞感を感じているとき、千剣破の妊娠がわかった。
部署のみんなはおめでとうと言ってくれた。
部長は言った「千鶴さんがいなくなるのは寂しいよ。これまで頑張って部署を明るくしてくれた。これからは千鶴さんは母親として家庭を立派に守り、明るく照らして下さい」と。
大きなお世話である。にこやかな笑みを浮かべながら千鶴は戦慄した。なんの評価もされていなかったのだ。ただの掃除係、お茶くみ係、営業の小間使いだったのだ。
千鶴はやめるとは一言も言っていなかった。しかし周囲は千鶴が辞めるのがあたり前として扱った。
千鶴は失望し、会社を去った。
千剣破の名付けは千鶴が行った。「ちはや」の音は神にかかる掛詞「ちはやぶる」のちはやである。
頑張っても報われなかった私のようでなく、神様のご加護をうけ、天の恵みを受けますように。そんな願いを込めた。
漢字は千の剣を破るとした。楠木正成の千早城は千剣破城とも書く。
1331年(元弘元年)、楠木正成は後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画に賛同し、河内赤坂城で挙兵した。元弘の変である。しかし正成は鎌倉幕府軍の圧倒的勢力の前に敗北して逃亡した。
翌1332年、正成は千早城を築城して再起にのぞんだ。この時正成は100万人の勢力を誇る幕府軍に対して僅か1000人の寡兵で戦い勝利した。
千鶴は娘の名に願いを込めたのである。天の恵みを受け、しなやかに、たおやかに、敵がいる中でも強く生きていけますように。魔が降りかかっても、懐に忍ばせた剣がこの子を守りますようにと。
千剣破はすくすく育った。曲がったことが大嫌いな正義感の強い良い子に育った。
公立の男女共学の小中学校であればつぶされていたかもしれない。正論で文句を言う女子は煙たがられやすい。
小学校低学年までは女子も喧嘩は強いが、学年があがるにつれ、男女の生物的な筋力の差は顕著になる。
小学校で男子生徒に暴力を振るわれ、力では男にかなわないと打ちのめされる女子は少なからずいる。
しかし千剣破は高校まで女子校だった。千鶴の母校でもある小林聖母女子学院である。
映画ではいじめの描写がなされたこともあったが、千剣破の知る限りそうしたことは一度もなかった。
教師はきめ細やかに生徒を見守った。平和で穏やかな学生生活だった。
千剣破はモテた。モテモテだった。カッコいいハンサム女性が尊ばれる宝塚歌劇のおひざ元である。正義感強く気風のよい千剣破はヒーローだった。
千剣破は、もし剣人が「剣奈」として生きていくのなら、剣奈を実家に預けて小林聖母女学院に転校させることも考えた。
転入出願は12月、試験は1月初旬である。今から準備させれば来年の転入に十分間に合う。
良い学校である。良い思い出しかない。剣奈もここで学んでくれればと思った。
しかし一つだけ悩みがあった。小林聖母女学院はキリスト教系なのである。信仰のもと、知性と堅実な実行力を備え、謙遜な心のもと、強く正しく、感謝と喜びを感じながら生きていける人になるようにとの教育方針だった。
素晴らしい方針なのである。しかしキリスト教重視の姿勢が不安だった。
剣奈は日本の神様とゆかりを持っている。日本の神様がたは他の宗教の神様も受け入れてくださるだろう。
しかし逆は……?剣奈に居心地の思いをさせるのであれば別の選択肢を考えた方がいいのではないか。
悩む千剣破であった。千剣破さん、悩み多き人である。
一方の剣奈、
「うわぁハムエッグおいしい。小林のお米おいしいよね。ボク大好き!」
これである。