83 鳴釜の神事と梅の林の宝の塚 剣奈の戸籍問題
『はぁー。いきなり異世界に移転しちゃってビックリしたね』
吉備津彦神社で参拝をしたらいきなり御鏡が光り幽世に移転した剣奈である。鬼山で鬼退治をして地脈に巣食う邪気を浄化したのだが、どうやら大吉備津日子命様に気に入っていただき、幽世に招かれたらしい。
『異世界だから遠慮なく剣気を使って、あっという間に吉備津神社にもお参りできたけど、いきなりブォーンっていう音が鳴ったね!ビックリ』
剣奈は剣気を足に流してぴょんぴょんと大きなスキップ、いやほぼ跳躍なのだが、軽やかに吉備の中山みちを進んだ。そしてあっという間に吉備津神社にたどり着いていたのである。
剣奈は吉備津彦神社で先ほどと同じように参拝を行った。するといきなり釜の音が低く大きく鳴り響いた。鳴釜の神事は釜で湯を沸かし、その音で吉兆を占う。剣奈が参拝した時は釜に触れていなかった。もちろん水も入っていなかった。火も焚べられていなかった。それなのに突然どこかにしまわれていた釜が共鳴したように鳴り響いたのである。謎である。現世でこれが起きていれば大騒動である。
無自覚のまま鳴釜の神事を終えた剣奈は三六〇メートルもの長い回廊を歩いた。そして荘厳な南随神門・北随神門をくぐった。そして入母屋屋根が二つ並んだ珍しい比翼入母屋造の本殿をぼーっと眺めていた。するといきなり現世に送り届けられたのである。
その時の吉備津神社は観光客や参拝客でにぎわっていた。それなのに剣奈が突然現れたというのに誰もそれを不思議とは思わなかったのである。解せぬ。
現世に戻った剣奈は吉備津神社からすぐそばの宇賀神社に向かった。ご神体ともいわれる池を渡り一礼して鳥居をくぐった。鮮やかな朱色のお社、大棟に鯉が浮き彫りにされたこじんまりとした本殿である。
宇賀神社の祭神は倉稲魂命、別名「宇迦之御魂神である。倉稲魂命はその字があらわす通り、食物や農業、特に稲の神として古くから信仰されている。かつては剣奈にゆかりの弁財天が祀られたこともあるという。宇賀弁財天、宇賀神と弁財天が神仏習合で同一化した神である。後に剣奈パーティーのメンバーになるゆかいな白蛇の主神でもある。
(白蛇詳細は『奴隷貿易と赤い女の幽霊』
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吉備津駅から岡山駅に戻った剣奈は新幹線に乗車し、岡山名物大集合弁当に舌鼓をうった。
「おいひい!おかずがいっぱい!このお弁当にして大正解だねっ」
吉備津彦命に幽世に招かれて鳴釜の神事でもてなされるという不思議体験をしたというのに暢気なものである。
お弁当を食べ終えてお腹いっぱいになった剣奈はうとうとと舟をこいだ。乗り合わせた男性諸氏から注目されまくりというにまったく意に介さず居眠りする剣奈である。大物である。
殺気を向けられなければ気にしない?そうですか。でも痴漢とかって殺気を出すものなのかな?悪意があれば邪斬くん(来国光)が黙っていない?そ、そうですか。
剣奈がのんびりうとうとしてる間に新幹線は新大阪駅に到着した。剣奈は眠い目をこすりながら新大阪から大阪駅に向かった。大阪駅で下車して歩道を通って阪急梅田駅に向かった。
初めての人であれば「えっ?大阪駅?なのに梅田?」などとプチパニックになるところだが、何度も母と帰省している剣奈は慣れたものである。
梅田駅からあずき色の阪急電車に乗車した剣奈は西宮北口駅を経由して逆瀬川駅を目指した。宝塚の祖母の家で母千剣破と合流する約束をしていたのである。
ちなみに阪急西宮駅は不思議な宇宙の情報統合思念体人型インターフェース娘や、目からビームを出す巨乳娘、そして多くの超常人に囲まれているというのに超常人をもとめる元気なうっかり娘らが登場する小説の聖地である。
千剣破はこの小説の大ファンで剣人を連れてこの街をさんざんに歩き続けたものである。もちろんアニメのDVD全巻も千剣破はもっている。剣人は何度も母とアニメを見ている。千剣破は大学生の時にこのアニメに感化されて露出の多いバニー姿で母校のステージに立って大喝采を浴びたのだがそれはまた別の話である。あんがい黒歴史の多い千剣破なのである。
千剣破はその日の夜、東京駅から新幹線に乗り、兵庫県宝塚市宝梅の実家に夜遅く到着した。剣奈はすでに寝ていた。相変わらず少女の姿のままでいる剣奈に千剣破はそっとため息をついた。
千剣破は母にあいさつし、お土産の和菓子を食べた。千剣破は谷保駅駅前の和菓子屋の相国最中と豆大福が大のお気に入りなのである。彼女はお土産というと足を伸ばしてこの和菓子を買いに行った。ちなみに現実世界ではこの時点で和菓子屋は惜しまれつつ閉店してしまっている。が、まあ小説はフィクションだ。気苦労の多い千剣破が大好きなら食べてもらおうではないか。
久志本家のある宝塚は宝塚歌劇団の本拠地である。宝塚歌劇団は阪急グループ創業者の小林一三氏が武庫川の岸辺に宝塚温泉を開設したことに端を発する。娯楽施設として隣に劇場を併設したのである。
暴れ川で知られる武庫川の横に一九九一年(明治四十四年)に温泉が開設された。そして一九一三年(大正二年)に宝塚少女歌劇養成会が設立された。翌一九一四年(大正三年)は第一次世界大戦始が始まった年である。この年、プールを改造したパラダイス劇場で記念すべき宝塚少女歌劇団の第一回公演が開かれたのである。一九一九年(大正八年)には宝塚音楽歌劇学校と宝塚少女歌劇団が設立されて現在と同じ態勢が整った。
久志本家は宝塚の中でも宝梅と呼ばれる地にある。宝の梅、ずいぶん縁起の良い名前である。この地名は宝梅園という大きな庭園があったことに由来する。かつては梅林が広がり「宝の塚」があったという。
梅林にあった塚(古墳)は一九六三 年(昭和三十八年)に土地の造成に伴い壊されてしまった。しかし現在、塚の一部が宝梅中学校の校門近くに復元されている。横穴式石室の奥壁部分で、高さ二メートル、幅六メートルほどである。
「宝塚」の地名の由来には諸説はあるものの、この「宝の塚」が「宝塚」の地名のもとになった説はまことしやかに語られている。
さて、千剣破の話に戻ろう。
千剣破は剣奈の横顔を見ながら悩んでいた。「この子はもう女の子でいることを受け入れたのだろうか」。もしそうなら早急に戸籍変更の届出と転校の手続きを進めなければならない。来国光の話から察するに、剣奈としてのこの子の身体は完全な女性体である。
千剣破が調べたところ、出生時の男女の取り違えは起こりうることだという。出生時に女性を男性と間違える場合、先天性副腎過形成症、アロマターゼ欠損症、副腎異常などによるものがあるらしい。いずれも妊娠時のホルモンのいたずらで女性が男性化する。副腎の働きによって妊娠時に胎内で男性ホルモン(アンドロゲン)が過剰になる場合があるらしい。そうすると胎児の外性器で、陰核肥大、陰唇癒合、尿道口の位置異常などが起こる。出生時に一見男性的に見えるため男女が取り違えられてしまうのだ。
もし剣奈の身体が完全に女性であり、医学的にも性別取り違えが起こりうるのであれば、戸籍変更は可能だろう。
千剣破がさらに戸籍変更について調べたところ、性同一性障害による変更の場合は剣奈が十八歳以上にならないとできないらしい。しかし出生時の性別誤認によるものであれば、「性別の誤認と名の変更許可」として即時に手続きを開始することができる。
性別の変更は一九五二年(昭和二十七年)三月二十日の大阪高裁管内家事審判官協議会協議結果の先例がある。他のケースでも問題なく通っている。
名の変更については、戸籍法 一〇七 条二で「正当な事由によつて名を変更しようとする者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない」とある。
つまり家庭裁判所に届ければ名が変更できる。男女の取り違えなのでこれも手続きは容易に進むだろう。
千剣破としては現世の剣人の身体が徐々に女性に置き換わっていくことを想定していた。現実世界で息子が女性化した場合、無事社会生活を送れるようにと前もって調べておいたのだ。まさかこんなに早く戸籍と名前の変更手続きを開始するかもしれないというのは想定外だった。
幽世での様子では、剣奈は女の子になることに抵抗を感じていたように思えた。この短い間に何が変わったのだろう。
ともかくもし剣奈が女性としての人生を選ぶのであれば、戸籍変更、名前の変更、転校の手続きをすぐにでも始める必要が出てくる。明日、剣奈に意思を確認しなければならない。
思い悩みつつ千剣破はいつの間にか眠りに落ちた。
その夜、千剣破は宝塚歌劇の舞台ですばらしい殺陣を披露する剣奈に熱狂の声援を送っていた。そんな夢を見た。