75 凶悪なる黒巨鬼あらわる
その時である。来国光は東の山から不穏な気配の揺らめきを感じた。鬼山の東の山を退治山という。その退治山からおぞましい気が立ち昇り、ナニカが結実していった。
退治山は鬼山から打穴川をはさんで北西に位置する標高二二七mの山である。
三保村誌は言う。「或日單身此の山に登り、悪鬼と格闘し迯ぐるを追ひ一劍のもとに退治た」と。三保村誌の記載にある「此の山」が退治山である。
人が伝説を信じると「場」ができる。形成された「場」は種々の思念を集める「核」としての役割を果たすようになる。「核」となる「場」が出来ると近くを通りかかった浮遊思念は「核」に引き寄せられ捉えられる。そうしたエネルギーを蓄えた「核」は力を増してさらに遠くの浮遊思念を引き寄せる。
自然界でも類似の事象はたびたび観察される。初期太陽系における地球の誕生ストーリーもその事例の一つである。惑星資源物質が漂うネビュラにおいて、何らかの事由で塊ができると、それが周囲の資源物質を取り込み成長する。
ある程度以上の大きさになった岩の塊は互いに引き寄せあい、衝突し、大きさを増す。そして大きくなった岩の塊はどんどん周りの物質を取り込むようになるのである。この引き寄せる力を「引力」という。
引力と重さの関係は物理学では最初に説明される。
アイザック・ニュートンは言う。"Every point mass attracts every single other point mass by a force acting along the line intersecting both points. The force is proportional to the product of the two masses and inversely proportional to the square of the distance between them."と。
すなわち、すべての質点は他のすべての質点をその両点を結ぶ直線上に働く力によって引きつけると。そしてこの力は両質点の質量の積に比例し距離の二乗に反比例すると。
ニュートン力学の基本となる「万有引力の法則」である。ニュートンは一六六五年にペストでケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ休学中にウールスソープの自宅でリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て引力の着想を得たと後に述べている。
しかしそれはニュートンの頭の中だけであり誰もその真偽を知らない。
ロバート・フックが「太陽と惑星の間に相互に引力が働く」と明言したのは一六七四年である。
ニュートンが万有引力について明言したのはプリンキピアの記述であり、その発表は一六八七年である。すなわちフックが十年以上も早い。
ペスト休暇で着想を得たとの主張が虚偽であれば万有引力の発見はフックである。
ただしフックはニュートンほど引力の関係性を述べていない。したがって発見はフック、完成させたのがニュートンとの解釈も成り立つ。
ちなみにフックとニュートンは犬猿の仲である。後に権力を持ったニュートンはフックの業績と足跡を徹底的に闇に葬ったとの主張もある。
蛇足ながら我々の知る次の式はニュートンによるものではない。後の物理学者がニュートンの着想をもとに数式化したものである。
F=G(m1*m2/r2)
F: gravitational force(引力、重力)
G: Newtonian constant of gravitation(万有引力定数)
m₁, m₂: masses of the objects(質量)
r: distance between the centers of the masses(距離)
余談が長くなった。退治山に話を戻そう。
人々は退治山で鬼が退治されたと信じた。人の何代にもわたる物語への思念は退治山に場を形成させた。
形成された場は核を生んだ。核は残留思念や浮遊思念をどんどん取り込んだ。その結果、退治山の核はどんどん成長した。
戦の地でもあった鬼山はもともと思念を集めやすかった。そして地脈エネルギーに満ちたこの地の特質はそれに拍車をかけたのである。
幽世と現世で同時存在性をもつ邪気は現世で強大となった核を幽世につなげた。今まさにここに退治山の核を幽世につなげたのである。
伝説による想いの集合体。核として凝聚された思念体は渦巻き、脈動していた。繭の胎動を思わせた。
しかし核は微細な思念の凝聚であるが故、膨大なエネルギーを有するものの、固体としての意思は持っていなかった。意思のない膨大な高密度エネルギー体。意思のない「怪異の繭」。
幽世と現世で同時存在性を示す邪気は現世で凝聚した高密度思念エネルギー体を「怪異の繭」として幽世に召喚させた。そしてその繭から黒震獣を実体化させたのである。
『邪気め、あの山の因果を用い、とんでもない黒震獣を具現化させおったな!』
地響きを立てて山から迫りくるナニカ。そのナニカが山を下りてきた。
ナニカは黒かった。ナニカは巨大だった。その輪郭は黒い陽炎のように揺らめいていた。
ナニカは棘のついた巨大な鉄の棍棒「金砕棍」を引きずっていた。
怪異があらわれた。
鬼が、出た。
「クニちゃ!鬼だ!鬼が出た!鬼だ!」
『うむ。体格に差がありすぎる。なにか嫌な感じもありおる』
「あんなのボク倒せるの?」
『剣奈、まずは様子見じゃ』
「らじゃ!」
千剣破の謎返答言葉、剣奈は気に入ったようである。
さて、鬼である。黒く巨大な鬼は金砕棍を振りかぶり、力まかせに剣奈に向けて振った。
黒鬼が振った金砕棍から巨大な矢、黒い弩矢が射出された。
黒弩矢はうなりをあげて剣奈に向かって飛んできた。
ドゴォォォォッ
轟音をあげながら迫りくる暗黒の弩矢である。直撃したらひとたまりもないであろう。
剣奈は本能的に黒弩矢を恐れた。そして剣奈は大きく跳躍して避けた。
『とんでもないものを放ちおる』
「ま、負けるもんかぁ! ん♡ ケントー、スペシャルー、スプラーッシュ!」
跳躍して避けながら剣奈は身体を拗って力を蓄えた。そしてその蓄えられた力を放つように来国光が振るわれた。
ピシュ。刀身から白黄色の針がとんだ。
ザシュ
剣奈の白黄色の飛針は黒震獣鬼の金砕棍によって砕かれた。
ドゴォォォォッ
再び襲い来る暗黒の弩矢。再びとっさに避けた剣奈である。しかし剣奈の左腕に激痛が走った。
「くぁぁぁぁっ」
切り裂かれ、焼かれ、剣奈の左腕から血潮が噴き出した。剣奈はかすっただけの一撃で大きなダメージを受けてしまった。
「クニちゃ、痛い。ボクの、ボクの必殺技が通じない!」
塩之内断層の闘いで怯え、逃げ出した剣奈がそこにいた。
まずい。来国光は思った。剣奈は攻めに強いが、窮地に弱い。いや、剣奈は「八歳の男の子」なのである。そんな子供に窮地での強さを求めるほうが酷である。
ましてや剣奈は身を切り裂かれて焼かれたのである。剣奈に怯えるなというほうが無理である。ひとまず立て直しを図るべきである。
しかし。来国光は思った。剣奈に敗北癖をつけてはならないと。来国光は思慮した。そして言葉を発した。
『剣奈、戦略的撤退じゃ。勇気ある撤退じゃ。剣奈が今すぐ立ち向かいたいのは分かる。じゃがあの白黄の飛針技にはまだ奥の手があるのじゃ。今こそ伝授しよう。伝授の時を稼ぐのだ』
剣奈は来国光の提案に乗った。逃げ出したいのが剣奈の本音である。泣き叫びたいのが本音である。しかし剣奈は塩之内断層の闘いで錯乱して剣気を全放出した。そして来国光を消滅させかけた。その苦い記憶がかろうじて動転して狼狽するのを抑えていた。
そこに来国光からの前向きな言葉である。剣奈は己の矜持を失わずにこの場を去る絶好の理由に縋りついた。
来国光の一見前向きな言葉は取り乱しかけた剣奈の心を落ち着かせたのである。
「わかった!必殺技はまだ完成していなかったんだね!よし!ちゃんと必殺和差を身につけてアイツをやっつけてやる!ん♡」
剣奈は剣気を足にためると大きく後方に跳んだ。そして黒震獣鬼から遠ざかるように走り出した。
『ひとまずあの茂みに身を隠すぞ』
剣奈の北方に木が茂る丘があった。勝﨏である。鬼を倒した桃太郎が勝鬨をあげたと伝わる場所である。
必殺技に続きがあると言ったのは、実は来国光の虚言だった。
そのままでは剣奈の敗北は確実だった。ともかく剣奈をあの場から逃がさなければならない。来国光はそう考え、とっさに方便を用いたのである。
一方の剣奈。
「逃げるんじゃない。あいつをやっつけるための、戦略的撤退なんだ!」
剣奈は来国光の言葉を強く信じながら勝﨏に向かって駆けた。