60 亀甲から鬼山城へ (マップあり)
「わあ!みてみて、クニちゃ!亀さんだ、亀さんだ」
亀甲駅に到着した剣奈は駅舎の屋根から飛び出した亀の首を見てはしゃいでした。
亀甲駅は亀を模した特徴的な外観をしている。一九九五年(平成七年)、久米郡中央町が六千万万円の費用をかけて改築した。駅ホームからも亀の屋根から飛び出す亀の頭を見ることができる。亀の頭は黄色を基調とした水玉模様で目は時計である。
駅舎の屋根は躑躅色的な紫みの落ち着いた赤色で、八角形の化粧枠が施されている。
屋根が亀の甲羅で、そこから、にゆっと大きな亀の頭が出ているのである。剣奈がはしゃぐのも無理はなかった。
弓削駅のエンジェル河童に、亀甲駅の亀駅舎。剣奈は旅を満喫していた。
「わぁ、亀さんがいる!ここにも、あそこにも!」
亀甲駅構内では亀が飼われている。また、亀を模したテーブルが置かれ、随所に亀の置物が配置されている。まさに亀づくしの駅なのである。
「どこいくの?クニちゃ」
『うむ。向かうは鬼山城じゃな。北北西じゃ!北北西に進路を取れ!』
「可笑しぃー。お母さんの謎のつぶやきの一つにそれあるよ。「ノースバイノースウエスト、北北西に進路を取れ!」って」
昔の名作映画である。思い込みでヘイトを向けられた主人公がひどい目にあう物語である。何かのフラグでなければよいのだが。
◆剣巫女 岡山県美咲町 元祖桃太郎史跡マップ 剣奈移動ルートと主戦場
さて、剣奈は北北西に向けて歩き出した。本来であれば県道三五二号線から国道五三号線に合流する。剣奈は交差点を通り過ぎ、役場まで直進してしまった。
「うわぁ亀さんの時計がある!ほんと亀の町だね!」
美咲町役場にほど近い町角に亀を模した時計が設置されていた。実に亀づくしの町である。
剣奈が北北西に向けて歩き出すと右手に亀の甲羅のような岩が見えた。亀甲岩である。亀甲駅の名前の由来となった、長辺十mほどの大きな平たい亀の甲羅に似た奇岩である。
言い伝えは次のようにある。「昔、行き倒れた巡礼者を村民が埋葬した。その後青い月が昇った。青い月の夜、弘法大師様の尊像を背に乗せた亀岩がせり上がった」と。
剣奈は亀岩に手を合わせ、さらに北北西に進路を取った。途中、グーグーマップを確認しつつ、打穴川に至り、鬼山城趾にたどり着いた。二kmほどの徒歩の旅であった。
鬼山城の初建築の時期は定かでない。記録に残るのは一三六二年(正平十七年)、福依三郎左衛門重信氏による再築城である。来国光に縁深い正平地震の翌年にあたる。その後、幾多の戦いを経、一三九一年(明徳二年)、ついに敗れ一旦廃城となった。
戦国時代、再び鬼山城が歴史に顔を出す。一五七四年(天正二年)、尼子家再興のさなか、鬼山城の玉置玄蕃守に対し尼子照平氏が侵攻した。玉置玄蕃守は獅子奮迅の戦いを見せるも力尽きた。ところが攻め方の尼子照平氏も命を落としてしまったのである。この戦は両軍大将がともに落とす大激戦となった。
ところで刀剣ゲーム好きなら知らぬ人のない名刀中の名刀の号と尼子家再興にまつわる余談を。
美しい三日月の打除けをもつ「三日月宗近」は、尼子家家臣・尼子三傑の一人、山中鹿介幸盛氏が所持したとの説がある。
「三日月」の号は尼子氏再興を三日月に祈願した山中鹿介幸盛氏が刀装に三日月を配したことに由来するという(三日月号の由来は諸説あり)。
尼子家没落は一五六六年(永禄九年)である。鬼山城の戦は尼子氏再興の一連の動きと重なる。山中氏が鬼山城の戦に参加した記録はない。しかし近接した時期に、同じ目的のもと三日月宗近振るわれたかも知れぬと思うと感慨深い。
さて剣奈、鬼山城に到着。
「何も無いね。緑のお山、長閑だなー。山に挟まれて、田んぼが大きな川に見えるね」
のんきなものである。