40 狼狽
闘い終わり、なんとかホテルに帰った剣人である。コンビニで買ったサンドイッチを頬張り、一心に食べた。実質的敗北に心が沈んでいた剣人だったが、食事をすることで気持ちが落ち着いてきた。
母の声が聴きたい。心からそう思った。剣人はスマホを取り出し、連絡帳の母の笑顔を眺めた。母が恋しかった。
(苦戦したけど、ボク、勝ったんだよね?ちゃんと黒犬退治して、地脈に巣食う邪気もやっつけたんだよね)
剣人は実質的敗北を、むりやり勝利ということに上書きした。
そうだ、ボク、今日とっても活躍したんだ。選ばれたヒーローとして、勇者として、立派に悪をやっつけたんだ。きっとお母さんは褒めてくれるに違いない。はやくお母さんに電話しなきゃ。
スマホを持つ左腕は震えていた。体は正直だった。震える右手の指先で母の笑顔にタッチした。
プルルルルル
ピッ
「もしもし、お母さん?ただいま、お母さん」
「剣人、おかえりなさい。楽しんだ?」
「うん。今日はすっごい冒険をしたよ」
「冒険? まあ、何かしら? お母さん、聞きたいわ」
「えへん。ボクね、悪をやっつけたんだ!」
悪?なにかしら。いたずらとかして、人様に迷惑をかけてなければいいんだけど。千剣破は少しだけ心を曇らせた。
「そう?すごいわね、さすが剣人。「悪」ってどんな奴だったの?」
「黒犬!最初は2匹出てきて、それは簡単にやっつけたんだけど、あとから10匹の群れで出てきてね」
え?ちょっとまって。野犬の群れに襲われたってこと?10匹?剣人、帰ってきてるから無事なんだろうけど、噛まれてたりしないかしら?野良犬だから狂犬病もってる可能性高いわよね?発症したらほぼ100%の確率で死ぬはず。え、ちょっとまって!だめよ、落ち着くのよ、千剣破。まず噛まれたりしてないか確認しないと!
「そ、そう?それは大変だったわね。元気そうだから上手く逃げられたんだろうけど、噛まれたりとかしなかった?」
「噛まれはしなかったんだけど、腕に爪を立てられちゃって、ザクッてやられちゃってさー。火傷したみたいにものすごく痛くて。でもボク、頑張ってそいつら倒したんだよ」
千剣破は目の前が真っ青になった。野生動物の爪は雑菌だらけである。狂犬病ウイルスは唾液に含まれている。唾液のついた爪で引っ掻かれると、狂犬病に感染する可能性が高い。傷を負った時に火傷のように痛かったということは、かなり深い傷に違いない。スパッとキレたんじゃなくて、えぐられた可能性もある。出来るだけ早く剣人を医者に連れて行かないと!
明日の夜に新幹線で行こうかと思っていたけれど、そんな時間はない!バスタ新宿発21:55、岡山に朝の7時台に到着。岡山行きの手段を調べた時、夜行バスも調べていた。今からでも間に合う。まずはバスの予約を取らないと。あと、ちゃんと傷口を消毒させないと。
千剣破はいったん剣人との通話を切り、剣人に傷口の洗浄と消毒をさせ、その間に夜行バスの予約をしようと判断した。
「あ、宅配便だわ。いやあね。宅配ボックスに入れてって設定しておいたのに。ごめんね、剣人、またすぐかけなおすわ。傷口洗った?消毒した?深くない?ズキズキとかヒリヒリしてない?血は出てる?お医者さんには見せた?消毒液はホテルのフロントには大抵あるから。いっそコンビニで買いなさい。あ、リュックに入れたわよね、たしか。まずはもういっぺんしっかり水で5分間は洗い流しなさい。土とかバイ菌がついてるかもだから、痛くてもしっかり傷を開いて洗い流すのよ?じゃあ10分後にかけ直すから!まずはお風呂場に直行しなさい。洗ってる途中だったら、電話でなくてもいいからね!じゃあ今すぐ行きなさい!」
ピッ
いやだ。大変なことになったわ。バスの予約取らないと。あ、出かける準備もしないと。仕事明後日から休むって言っちゃったけど、背に腹は代えられないわ。仕事に気を使って剣人に何かあったら、一生悔やむもの。今からバスに間に合うかしら。
さて、一方剣人である。「左腕、引っ掻かれたんだよね。火傷したみたいに、ものすごく痛かったんだけど、忘れちゃってた。どうなってるんだろ?え?え??何も無い!どうして?」
剣人が神様にお祈りして神気に包まれた時、「来国光治れ」と強く願っていた。そのため、癒しのご加護のあるご神気をいただいていたのである。少彦名命のご神気を、賜っていたのかもしれない。神気に包まれた剣人の傷はすっかり癒えていたわけである。パニックの千剣破姉さんにはお気の毒なことである。
「うーん。傷がない。無いけど、洗わないとダメだよね。仕方ない。もういっぺんシャワー浴びるか」
ガチャ
のんきなものである。