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38 神気


「クニちゃ」


剣奈は来国光を抱きしめた。抱きしめ続けた。やがて両の目をぎゅっとつむり、決心したように目を見開いた。


来国光を両手のひらに乗せ、天高く捧げた。そして祈った。祝詞はわからなかった。来国光がいなければ、何もわからなかった。


だから唱えた。知ってる言葉を懸命に唱えた。心を込めて。


吐普加美依身多女(とおかみえみため)


吐普加美依身多女(とおかみえみため)


吐普加美依身多女(とおかみえみため)


懸命に祈った。心を込めて祈った。しかし、何も変わらなかった。自分などが祈っても無駄なのだ。来国光の導きがなければ何もできないのだ。剣奈の心は来国光を失ってしまった悲しみと、恐怖にとらわれた。剣奈は来国光を胸に強く抱きしめ、地面にしゃがみ込みこんだ。自分を残していなくなってしまった来国光に再び会いたい。来国光が治ってほしい。そう願いながら、そう祈りながら、涙を流し続けた。


風が吹いた。一陣の風が吹いた。剣奈の周囲にあった淀みは吹き払われた。剣奈は清冽な風の中にいた。風は剣奈を包み、優しく髪を、濡れた頬を、全身を撫でた。剣奈は気づかなかった。悲しみと恐怖にとらわれながらも必死に祈っていた。何に祈っているのか自分でも分からなかった。けれど心を込めて祈った。


風は剣奈を優しく愛おしげに包んだ。悲しみと恐れに満たされた剣奈の心。しかし先ほどまでとは何かが違った。体の中にナニかが満ちてきた。周りの清冽な気を取り込んだからなのか、体の中心から湧き上がってきたのか、自分でもわからなかった。


剣奈は眩く輝いていた。剣奈の全身から白黄輝光が放たれていた。剣奈は気づいていなかった。ただ暖かなナニカが体を満たしている。そんな感覚だけがあった。悲しいはずなのに。悲しみに暮れているはずなのに。なぜか心に安らぎが広がっていた。


遠い昔、踏切の前。幼い剣人は突然泣き出した。踏切のカンカン言う音がうるさかったのかもしれない。電車の通り過ぎる轟音に怯えたのかもしれない。何がきっかけだったのかは分からない。ただ急に心に恐ろしさと悲しさが広がり、心が張り裂けそうになり、剣人は大声で泣き叫んだ。母は驚いた。今まで上機嫌だったのだ。急に激しく泣き始めた剣人に、母はとまどった。母は抱きしめた。ただ優しく抱きしめた。剣人の全身は母の暖かさに包まれた。剣人は安らぎにつつまれそのまま眠ってしまった。


今の剣奈がそんな心象風景にとらわれていたわけではい。しかし身体は覚えていた。暖かさに包まれ、恐れと悲しみがとけていく、そんな感覚を剣奈の魂はしっかりと覚えていた。固くハの字に寄せられていた眉根はほどけていった。強く強張った全身の力は抜けていった。今はただ、優しく、愛おしく、来国光を抱きしめていた。


暖かいナニカは剣奈の体の中に満ち満ちた。「あ♡」。剣奈の幼い子宮が安らぎに包まれた。安らぎは結紐(ゆいひも)を通じて来国光に流れた。来国光は剣奈の体と同化したように、なんの抵抗も無く、するすると、暖かな安らぎを受け入れ、満たされていった。そしてそれは、来国光を満たしたそれは、静かに凝縮していった。


昏く無だった来国光の意識に、一筋の細い光が差した。そして、冥闇を破るように、一気に光の奔流が流れ込んできた。


『む?』


来国光は眩い光にさらされ意識を取り戻した。今の状況が分からなかった。自分が剣奈に抱きしめられている。剣奈の幼い胸に抱きかかえられている。そのことだけは理解した。


『剣奈?』


来国光は呼びかけた。しかし、何の反応も返ってこなかった。


『剣奈?剣奈?』


安らぎに包まれ、蕩けていた剣奈の意識が引き戻された。ぼんやりとした感覚に漂っていた意識が、来国光の声を自覚し、はっと引き戻された。


「くにちゃ?」


『剣奈か?』


「クニちゃ。はぁ〜。っかったぁ!」


『剣奈!苦しい、苦しいぞ!』


剣奈は来国光を抱え、強つ強く抱きしめた。涙がぽたぽたと、うつむいた剣奈の瞼から顎先をつたって、あるいは胸をつったって来国光を濡らした。


来国光は痛みを感じない。けれど、照れくさいような、嬉しいような、愛おしいような、自分でも理解できない感情にとらわれ、、抱きしめられていることに、照れた。


『苦しいと、いうておろう!』


「えへへへ。くにちゃ、くにちゃ!」


剣奈は来国光の名をつぶやきながら、いつまでも、いつまでも、胸の中に抱きしめるのだった。

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