170 千剣破、鉄の覚悟と落涙 玲奈の未来を賭け 決死の取引にのぞむ
時は再び遡る。夏の暑い日、千剣破は神戸に来ていた。一昨日、剣奈、玲奈、藤倉らは異世界に行ってガスガン遊びで盛り上がっていた。楽しそうだった。そして昨日は剣奈を連れて宝塚病院で診断を受けた(167話)。
「ボク、女の子になるの?」
剣奈はそう言って涙ぐんでいた。涙を見せる我が子が不憫で抱きしめた。いきなりの性別変更、不安にならないわけがない。
そこでいきなり淡路島で合宿したいと言い出した我が子のわがままを許した。剣奈の心が晴れるなら安いものだと思った。
今朝、剣奈は楽しそうに笑顔で出かけていった(120話)。我が子の笑顔を見てホッとした。
剣奈も不安に立ち向かい、闘っている。今日の対決は気が重い。逃げ出したい。でも…… 私しかいないのだ……
朝九時、千剣破は悲壮な思いで、宝梅の久志本家を出た。
初夏の清々しい朝だった。日差しは強かった。セミが賑やかに鳴いていた。
千剣破はともすれば怖気づきそうになる心を鼓舞しながら、勝負服の濃紺のスーツで坂を下った。
下着もバッチリ気合を入れてある。ド派手レースの真っ赤なブラとショーツを身に着けていた。
今日の対決、目的地は神戸・長田である。
千剣破は阪急逆瀬川駅から西宮北口への電車に乗った。緑の多かった沿線はやがて都市に変わっていった。
西宮北口は千剣破の好きなラノベの聖地である。千剣破は破天荒な主人公に多大な影響を受けた。
大学祭ではバニースーツ姿でギターを抱えてステージに立ったこともある。
懐かしい思い出がふとよぎる。しかしこれからの対決を思い、千剣破は気を引き締めた。
千剣破は西宮北口で阪急神戸線の特急に乗り換えた。目指すは新長田駅。
車内には通勤のスーツ姿の男性や女性が目立った。夏休みでなければおそらく学生でにぎわうことだろう。この沿線には大学が多い。
車窓からは閑静な住宅街や六甲山が見えた。千剣破は流れる風景を見ながら、今日の相手とのやりとりを何度もシミュレーションし、反芻していた。
今日の相手、玲奈の両親である……
午前十時過ぎ、列車は新長田駅に近づいた。千剣破はスマホを取り出しグーグーマップで道順を再確認した。カバンに入れた書類をちらりと確認した。
電車はほどなく新長田駅に到着した。千剣破は改札を出た。日差しの向こうに巨大なロボットがそびえ立つのが見えた。
鉄人二十八号…… 阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた長田地区の復興のシンボルである。
明治時代、イギリスのダンロップ社が神戸でゴムの生産を始めた。神戸港にほど近い地の利があったからである。
神戸周辺にはゴムを用いた産業が発達した。長田地区は全国有数のケミカルシューズ産地として発展した。それが大震災の時、まさかの裏目となった。
一九九五年(平成七年)一月十七日、午前五時四十六分、阪神・淡路大震災が起こった。
震災で多くの工場が倒壊した。工場に貯蔵されていた大量のゴム製品(原料・靴・部品等)は着火しやすかった。なにが火元になったのかについては諸説がある。明確でないのでここでは原因は省こう。
午前六時前後、長田地区の家屋や工場、商業施設から同時多発的に火災が発生した。火災は瞬く間に拡大した。
大震災で混乱した行政の指揮系統、がれきで埋まった道路、破壊された消火設備、足りない消火剤、水…… さまざまな要因が重なり、火災は消えることなく燃え続けた。
火災が鎮火したのはおよそ四十八時間後である。
ゴム産業で栄えた長田地区は焼け野原になってしまった。玲奈の両親も被災した……
それから十四年後、長田復興のシンボルとして鉄人二十八号の実物大モニュメントが設置された。
鉄人二十八号は漫画家の横山光輝氏によるものである。彼は一九三四年に神戸市須磨区で生まれた。そして少年期から神戸や長田で過ごした。
そうしたことから阪神・淡路大震災の復興と地域活性化を願った地元市民や商店街有志が「KOBE鉄人プロジェクト」を立ち上げたのである。
玲奈は鉄人二十八号の足元をなんどもくるくる回った懐かしい思い出を千剣破に語っていた。
被災を乗り越えて育まれた恋、そして出産…… 玲奈の誕生は喜ばしいことのはずだった…… もし玲奈が…… 不気味な子でなかったなら……
千剣破は鉄人二十八号を見上げながら「玲奈の人生を預かる覚悟」を改めて強く決意した。
千剣破は商店街のアーケードを抜けて住宅街を進んだ。そしてとあるマンションでドアベルを鳴らした。
ピンポーン
しばらく沈黙があった。千剣破は、マンションの無機質な玄関に静かに立っていた。階段の遠くから子どもの泣き声が響いてきた。それが千剣破の心に酷くさざ波を立てた。不安になる心を千剣破は必死で押さえつけた。
カチャ
返事もなくドアが開いた。ドアの隙間から、かすかな冷気が流れ込んだ。ヒヤリ。身体の前面に寒気が走った。
千剣破の背中に汗が滲んだ。千剣破は無表情を装ってゾクリとする感覚に耐えた。
「はい」
緊張した玲奈の母親(真理子)が玄関にあらわれた。玲奈とよく似た美人だった。千剣破はリビングに通された。玲奈の父母が千剣破の正面に座った。
リビングには重苦しい空気が漂った。玲奈の父・竜作が肘をつき、じろりと値踏みするような眼差しで睨みつけてきた。
真理子は唇を噛み、両手で膝を握りしめていた。真理子の指先は微かに震えていた。
「初めまして。行政書士の久志本と申します」
「で、行政書士さんが何の用だ」
玲奈の父親の竜作が横柄に返した。
「端的に申します。玲奈さんを私の養女にしたいと考えています」
「養女に……」、そう告げた瞬間、空気がピンと張り詰めた。竜作が身を乗り出した。
ボキッ
拳を握る音が響いた。千剣破は微動だにせず、ただその様子を眺めていた。
二人の視線がぶつかり合った。竜作が睨み、千剣破は静かに見返した。
空気に静かな圧力が満ちた……
雄の恐ろしい圧迫感が千剣破に重くのしかかった。怖気づき逃げ出しそうになるのを千剣破は必死でこらえていた。
竜作は怒りに震えていた。玲奈はせっかく育った都合のいい性便所だった。竜作は玲奈を手放す気など全くなかった。
それどころか玲奈を取り返し、再び夜ごとの慰みにする気満々だった。
「玲奈さんは保護されて私のもとにいます。彼女の安全と将来のため、養女縁組を進めたいと考えています」
竜作は目を剥き、怒号をあげた。
「ふざけんなや!勝手なことを言うなや!玲奈は俺の娘や!」
竜作は手を伸ばして千剣破の胸ぐらを掴もうとした。千剣破は身を引いて、それを躱した。そして毅然と言葉を発した。
「あなたが玲奈さんになさってきたことは、すべて存じております。玲奈さんへの虐待、日常的な性的暴行も。事務所や弁護士、児童相談所、警察などにも相談しました。そのうえで、玲奈さんをひとまず私の養女とすることを決意しました。無理に取り戻そうと暴力を振るうなら、児童相談所および警察に連絡せざるを得ません」
「ちっ」
父親は怒りと焦燥で唇を震わせたが、ひとまず手をおろした。しかし依然として竜作の目つきは剣吞と千剣破を睨みつけていた。千剣破は恐怖でちびりそうになっていた。
彼女は心の中で必死に恐怖を押さえつけ、無表情を保つように努力した。弱みを見せてはならない。ビビっているのを悟られてはならない。
「あなたに玲奈さんの安全を脅かす権利はありません。私は庇護者として、彼女の未来を守ります。それをあなたに理解していただきたいと思います」
千剣破が毅然と言った。周囲の静けさの中、男はぐっとつばを飲み込んだ。声を潜め、やがて低い声で言った。
「いくら出す?」
「玲奈さんは売り物ではありません。あなたが口に出していることは、人身売買の示唆に他なりません。玲奈さんの身柄引き受けにお金は出せません」
「なんだと!」
「ですが、これまでの養育にかかったお金のうち、ごくわずかではありますが、五十万円用意してきました。拒否なさるならこの話は終わりです。刑事手続きに進むことになります」
竜作は考えた。
(このクソ女は法律家だ。まともに相手するには分が悪い。玲奈を手込めにし、虐待してきたのは事実だ。下手をするとムショ行きだ。なら、玲奈は諦めるとして、せめてこのクソ女から出来るだけ金をむしりたい)
竜作は提案してきた金額の倍は吹っ掛けるつもりだった。しかし……
(このクソ女はこれ以上びた一文出す気がねえな。警察へのタレコミをちらつかせてやがって…… クソ女め、犯してやりてえ)
「わかった。五十万で手を打とう。どうすればいい?」
「それではご署名捺印をお願いしたいと思います。実印のご用意をお願いします」
「ちっ。実印ねぇよ。銀行だ」
竜作は嘘を言った。あいまいなまま、ずるずると長引かせたかった。その間にあわよくば玲奈を取り返し、金をさらにむしり取りたいと考えた。しかし……
「大丈夫です。牛城さんの印鑑を用意してきました。こちらを使われますか?その場合、先ほどのお金からその分を引かせていただきますが」
「ちっ。おい、真理子、金庫の中を探せ。どっかに転がってるだろう」
「は、はい!」
真理子が慌てて立ち上がった。この家に金庫などない。しかしそれを言ったら後で殴られるだけである。
真理子はいったん部屋を後にし、押入れを開けてそれらしい物音を立てた。そしてたんすの引き出しから実印を取り出した。
千剣破が出した書類は何種類もあった。竜作は渡されるままに書類に署名捺印していった。
書類は、「養子縁組同意書」「未成年者養子縁組申立書(裁判用・家庭裁判所用)」「虐待事実確認書(児童相談所用)」「 養育放棄・親権放棄承諾書」などである。
「書類一式をこちらに残さず、お渡しいただけるなら、譲渡料として追加で二十五万円を支払うことができます。こちらは任意ですがどうされますか?」
「ち、どうでもいいよ。金よこしやがれ」
「では」
■未成年者養子縁組同意書
・養親:久志本千剣破(氏名/住所/本籍/生年月日)
・養子(予定者):牛城玲奈(氏名/住所/生年月日/本籍)
・実親(委託者):牛城竜作・牛城真理子(氏名/住所/生年月日/本籍)
・同意事項:玲奈を久志本千剣破の養女とすることについて、法的に同意する。
・署名捺印欄:牛城竜作・牛城真理子(自署・押印)
■未成年者養子縁組許可申立書類(家庭裁判所提出用)
・申立人=久志本千剣破。相手方=牛城竜作・牛城真理子。
・対象者=玲奈の個人情報
・虐待および保護理由
・養育計画・今後の進路、生活の安全確保
・親権及び養育義務放棄確認欄
・牛城竜作・牛城真理子 署名・捺印
■虐待認定・扶養権放棄報告書(児童相談所用)
・実親による虐待の事実
・保護責任移譲と今後一切の権利主張をしない同意欄
・牛城竜作・牛城真理子 署名・捺印
■金銭授受確認書
・未成年養子縁組に伴う実親への一時金支払い(五十万円)、書類譲渡料(二十五万円)、合計七十五万円の受領。及びこれ以上の請求権の放棄。
・「児童売買禁止法に従い、身柄引受に金銭的対価は出せない。しかし過去の養育に対する配慮に基づき一時金として五十万円支払う。さらに書類譲渡として追加で二十五万円支払う」
・今後追加請求権なし、児童売買目的の否定
・牛城竜作・牛城真理子 署名・捺印
■行政書士事務所の責任・連絡先
・当該書類は法的根拠に基づくこと、事務所名・担当者名・連絡先・証明書
「それではこちら五十万円と二十五万円、合計七十五万円です。お改めください。それからお二人の戸籍謄本の提出と印鑑証明書の提出をお願いします。手間賃として五千円づつ、合計一万円お支払いします。明後日取りにまいります。もし印鑑が異なる場合は申し訳ありませんが押しなおしをお願いします」
竜作がちらりと真理子を見た。真理子は怯えた顔で顎をかくかく振っていた。実印を持ってきてよかったと思いながら。
千剣破がその様子を見て静かにうなづいた。そして分厚い封筒をカバンから取り出した。
「それではお納めください」
竜作がニヤリと笑いながら封筒を受け取った。もともといなくなっていた娘である。
玲奈が家出した時に連れ戻そうとしたが、その時はやくざ者にはけんもほろろに追い返された。
(今回はババアだが法律女でめんどくさそうだ。まあ七十五万円が手に入るならそれでいい。一万円もらえるなら役所書類ぐらい妻に取りに行かせてやる。そして…… ほとぼりが冷めた頃、玲奈を見つけて無理やり連れ戻すか……)
どこまでもゲスな父親である。
玄関を出た千剣破はほっと一息をついた。膝ががくがくふるえているのがわかった。
千剣破とて普通の女性である。男性に暴力を振るわれたらかなわない。粗暴な竜作に心底恐怖していた。
千剣破は念のために勝負下着に多い日用ナニカを装着しておいてよかったと思った。自覚はあった。多い日用ナニカは黄色く…… いや、なんでもない。
「はぁ…… 私…… がんばった」
玲奈の両親のマンションを出てしばらく歩いた千剣破は、電柱の脇でしゃがみこんだ。張り詰めていた気持ちが緩むと、自然と涙が溢れた。
それが恐怖の涙なのか、がんばった達成感なのか、玲奈を守り切った安堵なのか、千剣破自身にもわからなかった。
「あの…… 大丈夫ですか?」
通りがかった女性が声をかけた。
「あ、い、いいえ。ちょっと立ち眩みがしただけ……」
千剣破はお礼を言って歩き始めた。
千剣破は彼女にできる最善を尽くしたのである。
太陽はじりじりと千剣破に降りそそいでいた。灼熱に炙られるように熱かった。




