152 マゾッ娘百合ネコ爆誕!? 黄泉比良坂を抜けて
剣奈は夢を見ていた。一人暗い闇の中に置き去りにされた恐ろしい夢だった。剣奈が立っていたのは坂だった。前方で大きな岩が坂の出口を閉じ、漆黒の闇を深くしているのが感じられた。
「あっ、ボクここ知ってる。猪さんに突き飛ばされたときに来たことある」
黒々とした闇に沈む坂の地面はじっとりと湿り気を帯びていた。足元は朽ちた葉のような、腐った泥のような、ぬるりとした感触がした。霧が立ち込めていた。
夢だというのに剣奈の鼻には腐臭が感じられた。腐った臭いながら、甘い匂いも混じっていた……
剣奈のいる場所。黄泉比良坂である……。
『フ……リカエルナ……』
心の中で誰かが警告した。来国光の声ではなかった。女性の声のような気がした。
ヒュウ
風が吹いた。背筋を刺す冷たい風が吹き抜けた。
ブルッ
剣奈は身震いした。未練、絶望、哀しみ、痛み、苦しみ、悲哀、さまざまな負の感情が剣奈の心に流れ込んだ。
「クニちゃ!クニちゃ!」
剣奈は一生懸命にパートナーの名を叫んだ。目は閉じられた岩のほうに向けられていた。見えなくてもそこに岩があると感じられた。
振り返ってはいけない。
なぜかそんな気がした。
来国光からの反応はなかった。剣奈の心に暗闇と負の感情が満ちてきた。押しつぶされるように絶望に心を満たされた。剣奈は呆然とし、自我を手放そうとした。そのまま闇の中に自分が同化していく。そんな気になった。
「あ!ボク、これ知ってる……かも?」
そう思ったとき、剣奈の意識が薄れた。そのまま剣奈は自我を手放した。
――――
サラリ サラサラ
剣奈の髪が誰かに撫でられた気がした。
微風に剣奈の髪が柔らかく揺れた。剣奈は後頭部に柔らかな暖かさを感じた。
剣奈は瞳に光を感じた。閉じられた瞼を通して、温かい優しい光が差し込んでくるのが感じられた。暗く取り残された自分を陽光がつつんで引き上げてくれている。そんな幻想を抱いた。
砕かれた胸。溶かされて爛れた胸・腹・腰・太もも。ずたずたに破裂させられた内臓。それらが柔らかい何かに包まれた。身体全部がトロトロの蜂蜜のように溶かされていく。そんな感触に包まれた。
痣だらけ、傷だらけで、ずきずき痛んだ剣奈の全身から痛みが消えていった。そして暖かなナニカに包まれ、癒される快感を感じた。
どれくらい経ったろう。剣奈はぼうっと瞼を開いた。
ぼやけた剣奈の瞳に何人かの人の輪郭がぼんやりと映った。目の真ん前に心配そうに見守る気の強そうな女性の顔が見えた。少し離れて心配そうに見守る老人の顔が見えた。そして少し頬を紅潮させ、しかし心配そうに、それでいて何やら食い入るように見つめる変態オヤジの顔が見えた。藤倉の変態顔である。
驚きハッと意識を戻した剣奈である。
剣奈はぼんやりと、光が差し込む景色を見上げた。自分の全身が暖かいもので包まれているような感覚……。体中に微かな力が満ちてくるような、不思議な安心に包まれた。
剣奈はそっと指を動かしてみた。
「……あれ?ボク……、生きてるの……?」
玲奈の姿が見えた。玲奈はずっと剣奈を見守っていた。玲奈は涙目で剣奈を見下ろしていた。
剣奈がきょろきょろとあたりを見回した。そして小さくつぶやいた。
「……あれ、藤倉先生……、いない……?」
玲奈がフンと鼻を鳴らし、半分呆れ、半分照れ臭そうに吐き捨てる。
「藤倉は現世においてきたろ?大体、今いても意味ねぇだろ。どうせ変態顔で見てるだけだし」
剣奈は微かに笑った。確かにそうだと思った。剣奈の夢の中でも藤倉は変態顔で自分を見てた。
可笑しかった。でも……、心のどこかで藤倉先生にいてほしかった……。そんな気がした。
剣奈の中で藤倉の存在はいつの間にかとても大きなものになっていたのだった。
剣奈は玲奈を見つめた。心配してくれる玲奈の手のぬくもりに剣奈は静かに甘えた。
「ごめんね、玲奈姉……。ボク、なんだか……、すごく不思議な夢を見てた」
玲奈は剣奈の髪をそっとなでた。
「もう大丈夫だ。バカやろ……。心配したぜ……。し、死んじまうかと……」
玲奈がほろりと涙を流した。
「れ、玲奈姉……ごめんなさい。ごべんなざい……」
剣奈も泣き出した。
「剣奈……、生きてて……、生きててよかったよ」
玲奈は剣奈のほっそりとした体を、強く、そしてどこまでもやさしく抱きしめた。
剣奈は微かに震えながら玲奈の腕に自分を委ねた。二人の頬が触れ合った。二人の涙が交じりあった。そしてお互いのぬくもりが、お互いの心の奥深いところにまで沁みこんでいった。
「アタイ……、剣奈がマゾっ娘になっちまったかと思ってよ……。そしたら元気になったらちゃんと苛めてやらねぇと……、なんて思ってたんだよ。剣奈……」
玲奈の息が剣奈の耳もとをかすめた。ぼやけた視界に玲奈の横顔が近づいた。涙の粒がぽつりと剣奈の頬に落ちた。
剣奈は玲奈の首筋に頬をゆっくり寄せていった。玲奈の腕がぎゅうっと強く剣奈を包み込んだ。
二人はきつく抱き合った。お互いの体温が、傷ついた心にも肌にも、静かに流れ込んでいった。
そのまましばらく二人は抱き合っていた。玲奈の手は、剣奈の背中をやさしく撫でていた。
剣奈もまた玲奈の背に腕を回して抱きしめていた……。そして……どちらからともなく声にならない吐息が漏れていた……
(ああ……これ……、なんかヘンかも……でも……、気持ちいい……)
涙とともにふわりとした幸福感が溢れた。切なさが二人を包み込んでいた。少しして、玲奈が小さくつぶやいた。
「……はは。なんかよ。変な感じだな……。でも、今だけは……。今だけは……、オマエを抱きしめていたい……」
玲奈は剣奈の首に顔を押しつけながら囁いた。
「うん……」
コクン
剣奈が小さくうなずいた……
剣奈はゆっくりと玲奈の方を向いた。そしてにっこりと笑った。玲奈も剣奈にやさしく微笑んだ。唇が……、触れ合った。
玲奈が言った。
「……変な夢見たなら……、覚えてるなら……、あとで全部話せ。アタイが全部聞いてやる」
「うん……」
玲奈は剣奈の顔を見つめていた。しかし、すぐに表情を引き締めてぶっきらぼうに言った。
「ったくよぉ。どんだけ心配させるんだよ。……お前、もう二度と勝手に逝くんじゃねぇぞ」
剣奈は玲奈の強い言葉にくすっと笑った。
「……ごめん、玲奈姉。でも……今、すっごく体が…あったかいよ」
「それは剣気が回ってんだろ。今のお前、不死身って顔してるぞ?」
「えへへ。本当? ボク、不死身?なら何でもできそう……」
玲奈は半ば呆れたようにため息をついた。
「その調子でちゃんと回復してみせろよ」
「……うん!」
剣奈はもう一度、大きく息を吸い込んだ。そして懐かしい気配を感じた。夢の中でも感じ続けていた気配。剣奈は口を開いた。
「クニちゃ……」
『無事でよかったの。もうだめかとおもったぞ』
「クニちゃ、ボク、巫女舞やって神気いただいた時と似てる。元気ムンムンフルパワーなんだよ」
黒巨猪との闘いは厳しい戦いだった。黄泉への旅路をほぼ渡っていたのである。臨死体験をしたのである。
そして今回も……、ほぼ剣奈は……。いや、実際に剣奈は……
「この死にぞこないが」
玲奈が剣奈の頭を軽く叩いた。