150 絶望の暗黒晶天狐咆 暗黒ブレスに 剣奈消ゆ
『来おるぞ!』
「ん♡」
淡路島の鳴門海峡に強大な九尾が現れた。潮騒の轟きが轟音のように耳を打った。九尾は邪気の黒き闇に覆われていた。その輪郭は靄のように揺らめいていた。空には黒雲が渦巻き、太陽の光はすっかり遮られていた。薄暗がりの中、黒く脈動する巨大な怪異九尾、その異形の存在感に空気が張りつめた。
九尾の前肢がゆらりと何気なく持ち上げられた。特に力を入れたとも思えない動きだった。何気なく、まるで身体の重さを忘れているかのような無頓着さで持ち上げられた右の腕だった。しかし右前肢が斜めに持ち上げられると空気にひたりと緊張が走った。
シュン
袈裟斬り。力を込めたようには見えない動作だった。しかしその動作は信じがたいほど鋭く、斬れ味を感じさせた。
次の瞬間、風すらも一瞬遅れて、目には見えぬナニカが大気ごと裂き、そのナニカは剣奈に向かって疾った。
本能。その一言に尽きる。剣奈の体は意思よりも先に動いた。来国光の警告にあらかじめ剣気を丹田に溜めていた。いかようにも動けるよう身体に薄く剣気を纏っていた。
ヒュッ
剣奈は地を蹴る音も残さなかった。彼女の身体は風になったかごとく宙に浮いた。
「……今のが見えたのか?玲奈?」
隣で地面にダイブした玲奈の顔が青ざめていた。玲奈には見えていた。人の見えざるものを見通す玲奈の眼はしっかりと捉えていた。九尾の前肢に纏う大きな妖気を。その前肢が生んだ巨大な真空の刃を。
「あれは……空気を裂いた…… 妖気による真空の刃。人は誰も気づけないものを、今、テメエは……」
玲奈は息をのんで視線を上げた。驚愕とともに剣奈を見上げた。この小さな少女は気配だけであの恐るべき攻撃をかわしたのである。玲奈は剣奈の恐るべき闘いの才能に畏怖した。
剣奈は九尾を見据えていた。その額には冷や汗がじんわりと噴き出していた。
「ハァハァ、玲奈姉。あれが不意打ちだったなら、ボクたちはすでに……この世にいなかったかも……。どうしてあの子わざわざボクたちに気づかせるように技を出したんだろ?猫がネズミをいたぶるように、ボクたちをいたぶりたいの?」
剣奈は弾む息を整えもせず、目の前の敵から目をそらさず、先ほどのことを思い描いた。
「わからない。ボクにはわからない。でも……いたぶるような嫌な感じはしない……。ていうか、なんだか苦しそう……。それにしても……。あんなのを何気なく振るうなんて……」
ゴクリ
玲奈は小さく唾をのんだ。肩を震わせながら剣奈を見つめた。
「剣奈、油断すんな!ただの気まぐれだったのかもしんねぇ。そしてな。あいつの気が変わったらアタシらなんぞ一瞬だ」
「分かってる。でも……絶対に食らわない。玲奈姉はあれが見えるの?避けられる?ボク、たぶん……玲奈姉をかばう余裕ない……」
玲奈はわずかに微笑んだ。強がりの笑みだった。無理に頬に力を入れて片方の口角を引き上げた。頬はこわばり、無理に引き上げられた口角はひくひく震えた。精一杯の強がりだった。
「心配すんな剣奈。アタイにはアイツの妖気が見えるからよ。技を出すのを察知できる。見たとこアイツの技はまっすぐだ。なら避けられる。追尾されるときついけどな……」
その時である。九尾の巨大な尾と前肢の動きが静かに止まった。海峡を渡る風が咽び泣くように唸った。闇の霧に沈む水面は深紫色に輝いた。恐怖、静謐と緊迫が……、満ちた。
剣奈と玲奈、そして来国光も九尾の動きを凝視していた。振るわれたままの前肢はいまだ動きを見せなかった。
そして九尾の瞳に不思議な陰が差しはじめた。その巨大な狐の顔はどこか哀しげな色を見せていた。まるで誰かに助けを求めているような……そんな気配をまとっていた。
「……なんか変じゃねぇか?アイツ、攻撃をためらってるような気がするぜ」
『うむ。わしらを殺るつもりならすぐさま追撃を食らわせれば良いじゃろに』
「クニちゃ、玲奈姉、ボク、あの狐さんが、あの子が寂しがってるように感じるんだ。あのね、玲奈姉と初めて向き合ったときに似てる。攻撃してくるんだけど、それは本心じゃないような」
「さてな、そっちのアタイの記憶はこれっぽっちもねぇからな。そん時、アタイの片割れが何考えてたなんざわかんねぇよ。案外オメエの勘違いじゃねぇの?アタイの片割れはオメエに毒を浴びせてニヤニヤしてたんだろ?」
「うっ、そ、そうだけどぉ……」
剣奈は返答に詰まった。玲奈は剣奈をからかいつつ何かを感じた。それは邪気に心を奪われた者同士の共感だったのかもしれない。玲奈の心の奥を違和感がかすめた。
「おい、アイツ……アタイたちを……」
「うん」
剣奈はじっと九尾を見つめ返した。
「攻撃はしてきた。直撃されたら確かに殺られてた。でも……。どっか……迷ってるみたい……」
『封じられし古き魂はの、しばしば迷うのじゃ。……しかしの。こやつめは……」
来国光は九尾の様子をうかがいながら静かに言葉を紡ぎ始めた。
その時である。来国光の言葉が終わらぬうちにそれは突如として九尾の内奥から溢れ出した。黒かった。禍々しかった。黒き邪気――それは夜の海よりも深い闇。その邪気が、九尾の身体を満たしていた邪気が、九尾の胸元からぶくぶくと沸き上がった。そして九尾の全身をさらに厚く覆った。その黒靄はドクリドクリと禍々しい脈動を始めた。
その瞬間、九尾の顔貌が歪んだ。九尾の瞳は意思の力を失い、凍てつく怨嗟の色に変わった。
『!!っ 来おるぞっ!』
「ん♡」
「なんだありゃあ!」
来国光が叫んだ。剣奈は来国光の警鐘に反射的に剣気を丹田にためた。玲奈が驚愕に満ちた声をあげた。
その時である。
ソレがきた。
グオォォォォォ!
九尾は大きく口を開け、吼えた。そして高密度の妖気を喉奥に溜めた。わずかの溜め。そして九尾は喉深くからナニカを噴いた。激しい咆哮とともに。
空間を軋ませてナニカ――高密度の妖気、強烈なブレスが押し寄せた。地を裂き、海風を弾き飛ばす黒き一撃。その圧力が二人と一振り、その場にいた全員の死を告げた。
玲奈は高密度の妖気が九尾の胎内深く生み出され、それが上昇していくのを見た。喉奥にためられていくおそるべし妖気の塊を見た玲奈は、九尾の口からブレスが放出されると読んだ。
玲奈は必死に妖気の流れ、そして九尾の筋肉の動きと顔の向き、さらに視線の先を読んだ。ブレスの軌道を瞬時に読んだ。
玲奈は走り出した。全速力で走った。地面を強く蹴って疾走した。
ブオォォォォォォォッ!!
ブレスがきた。玲奈は斜面下に向けて必死に跳躍した。尖った岩が玲奈の服を裂き、肌を裂いた。しかし玲奈はそんなことは一切考慮しなかった。
玲奈は湿った地面にダイブして体を投げ出した。泥と潮の感触にまみれながら必死に手で後頭部を覆った。
「くっ……! けっ、剣奈ぁぁぁぁ――!!」
剣奈は跳んでいた。九尾からソレが放たれる前に気配を察した。
「ナニカがくる。とてつもないナニカが」
何が来るのかはわからなかった。しかし強烈な死の予感は剣奈の身体を貫き、戦慄させた。
剣奈は跳んだ。なぜ跳んだのか剣奈自身にもわからなかった。しかし本能が告げた。そこにいてはダメだと。
剣奈は跳びながら強烈な殺気をまとった九尾を見た。そして強烈な違和感に襲われた。
「あの子、あの子……!違う。さっきのあの子じゃない。何かに……何かに吞まれた……」
『感じたか。剣奈よ。わしの心に触れる闇……あれは九尾ではない。慣れ親しんだ邪気のにおいよ」
「ん♡」
剣奈は息を切らしながらもさらに剣気を丹田にためた。ちらりと疾走する玲奈を見やった。
「玲奈姉は大丈夫。ちゃんと避ける」
『この邪気の気配は懐かしいのぉ。わしはこやつを知っておるぞ。こやつ……恐ろしく強い……。気を抜けば魂ごと持っていかれるぞ。気を抜くな!剣奈よっ!』
海峡の闇の中、空気が黒く染まった。ドクリ。剣奈の鼓動がひときわ高く鳴った。
グオォォォォォォォッ!!
九尾がニヤリと笑みを浮かべた。嫌らしい笑みだった。そして九尾は大きく口を開いた。牙がぎらりと光った。そして放った。黒く禍々しく染まった恐ろしい高密度の妖気の塊を。
どしゅううううううっ!
「くっ……! けっ、剣奈ぁぁぁぁ――っ!!」
九尾は剣奈が跳躍するのを見た。存分に見た。そして跳躍した剣奈に放たれた強大な死の咆哮。
それは剣奈に向かって一直線に放たれた。玲奈には見えた。剣奈がそれに呑まれるさまを。金晶天狐咆、いや暗黒晶天狐咆に呑まれるさまを。
そして剣奈の姿が消えた…… 九尾の放った恐るべき高密度の妖気に剣奈は呑み込まれた。そして一瞬にして蒸発した…… 玲奈の目に……その瞬間が深く刻まれた……