149 黒九尾、鳴門に吠ゆ 絶望の果てに立ち向かう剣奈
――ドオォォォ!!!
黒雲が空を覆い、雷鳴が辺りを切り裂いた。海面に突如、恐ろしいまでの吸引と轟音を生み出して巨大な渦が現れた。その中心から溢れ出したのは、黒き邪気であった。暗さと重さが混じり合い、光すらも飲み込もうとする禍々しさであった。
やがて、それは渦の奥底からゆっくりと現れた。
巨体、それも尋常ならぬ巨大さだった。黒い毛並みは夜よりも深く、ねじれるように尾が扇のように広がる。ギョロリと白く輝く瞳が、大地――いや、この世界すべてを睥睨するかのように剣奈と玲奈を射抜いた。
九つに分かれた尾が海風に乗って舞い、渦中に冷たく鋭い気配を漂わせた。
嵐の轟音のなか、剣奈は膝の震えを隠せなかった。だが、来国光の柄だけは全力で握りしめていた。逃げ出したい衝動を押さえ込んでいた。
これまでの戦いが脳裏を駆け巡る。黒巨蛸、黒巨猪、俊敏な黒猿、黒獅子に、凶暴な黒鬼……どれも恐ろしかった。けれど、この妖狐、禍々しく黒く巨大な黒九尾。この圧倒的な威に比べればすべてが霞んでしまうようだった。世界が、ただこの黒九尾一匹のために、打ち震えているようだった。
「……あれは何?」
誰に問うでもなく剣奈はつぶやいた。口元は強張り、声は微かに震えていた。それでも剣奈の目は妖狐から決して離れなかった。
玲奈もまた、冗談を言う余裕などない様子で顔を強ばらせていた。その口元にいつもの悪戯めいた笑みはなかった。ただ真剣に、目の前の圧倒的な怪異を見つめていた。
剣奈が呟いた。
「あれほどの、凄まじい妖気……これ……、この化け物は人の力でどうにかなる相手なの?」
剣奈の声は波の音に掻き消されそうなほどか細く聞こえた。
その瞬間、妖狐が二人の存在に気づいたかのように顔を向けた。禍々しい瞳の奥には、無慈悲な絶望と胸を刺すような深い哀しみが見え隠れしていた。
玲奈が乾いた喉で息を呑み込んだ。
「はっ、とんでもねぇ化け物が出やがったぜ。猿まではなんとかなったんだがな。剣奈、どうする?逃げても笑わねぇぜ?」
玲奈の声色にはいつもの揶揄うような軽さはなかった。驚きと隠し切れない恐れがにじんでいた。だがそれ以上に剣奈の意志を問う温もりが感じられた。
剣奈は玲奈の顔を一瞬だけ見つめ、そして再び揺れる黒九尾の妖怪に視線を戻した。
怖い。逃げたい。だが、今ここで退けば、あの日のボクに逆戻りしてしまう
あの日……ボクは犬に怯えて泣いていた。クニちゃさえ失いかけた。
嫌だ!
ボクは、ボクは、あの日のボクに戻りたくない!
「ボク、逃げない。逃げないよ?怖い……ものすごく怖い……。でも、ここで逃げたらもう戦えない。そんな気がする。玲奈姉……クニちゃ……ボクに、ボクに力を貸して?」
剣奈の声が震えた。唇を噛みしめすぎて血が一筋、顎を濡らした。玲奈はこわばる顔に力を込め、無理やり口角を引き上げた。
「おぅ! 任せろ剣奈」
玲奈の頬はひくひくと震えていた。玲奈は左頬にさらに力を込めて震えを封じ込めた。玲奈は太ももに手を伸ばした。そしてホルスターからワルサーP38を静かに引き抜いた。その動きにはためらいも迷いも感じられなかった。
剣奈の手の中で来国光が静かに語った。
『うむ。それでこそ剣奈じゃ』
心に届けられる来国光の声が剣奈の心にそっと寄り添った。
「ん♡」
剣奈は即応できるように全身に薄く剣気を流した。勇気と守護の力が全身を覆った。
潮風が二人の髪を激しくかき乱した。波は荒れ狂い九本の尾は天を突くように踊った。見上げれば暗雲が渦を巻き、稲妻が一筋光った。
闇に包まれた世界で、剣奈と玲奈の瞳……双眸の光はけして消えることはなかった。
『剣奈よ。あの九本の尾……淡路の古語りで聞いたことがある。古の怪異、妖狐九尾じゃな。まさか本当に実在してたとはのぉ』
来国光の声に剣奈が息を呑んだ。玲奈は片頬をあげてニヤリと笑った。凶暴な笑みだった。
「見ろよ剣奈。世界の終わりみたいだぜ。でもよ、こうなったら意地でも諦められねぇな」
「うん!」
その短い返事の中に、剣奈のすべてが詰め込まれていた。自分の弱さも、過去の恐れも、すべて振り切ろうと。
今、ここで逃げてしまえば、自分を赦せなくなる。たとえ九尾にこの身が裂かれ、あの鋭い牙に全身が屠られてしまったとしても。
「物語でもよくあるよね。エリアの境界を間違えていきなり高レベルの強敵があらわれてしまうことが。もしかしたらいったんリ〇ミトとか、思い〇の鈴とか、テ〇ポとかを使ってダンジョンから脱出するのが正解かもしれない。力を蓄えてレベルを上げて再チャレンジするのが王道かもしれない。でも、でも。玲奈姉、クニちゃ、ごめん、ボク、行くよ?」
「はっ、訳のわかんねぇご託並べてんじゃねえよ。とっくに覚悟できてんだよ!」
『うむ』
グオォォォォォ!!
妖狐黒九尾が大きく吠えた。黒雲が捻じれ、雷が全てを貫いた。大地が唸った。衝撃波は地の彼方まで揺らした。海面は大きな波紋にまみれた。打ち寄せた荒波は剣奈と玲奈に潮の飛沫を浴びせかけた。
「行く!ボクは、ボクは、クニちゃとあいつに挑むよ」
「頼もしいな、剣奈。援護射撃は任せろっ」
いつもの玲奈の男前な口調が剣奈の心を強くした。剣奈の不安と恐怖が少し和らいだ。玲奈の男気、その優しくも強い気持ちが剣奈の背中を支えた。
ビシュゥゥゥゥゥ!!
黒渦の中心から妖狐の巨大な尾が、九つの尾が同時に空を切り裂いた。その動き一つ一つが、まるで天地を動かしてしまいそうだった。
「来い! 黒九尾!」
剣奈が雄叫びのように叫んだ。玲奈の片頬がニヒルにニヤリと吊り上がった。その横顔は荒々しくも頼もしかった。
彼女たちの身体は小さく、黒い嵐の中で儚い存在だった。しかし鳴門の怒涛の潮騒が彼女たちの心の鼓動と重なり、彼女らの命が明るく光り輝いた。
絶望と希望が交錯する鳴門の海。二人と一振り。対するは一匹の大妖狐。それぞれの魂を賭けた壮絶な闘いが今、始まろうとしていた。