148 封じられし珠、哀しき目覚め
淡路島の南端、誰も寄りつかぬ海底。潮が激しく渦巻く海底の深く、「殺生珠」と呼ばれる宝珠が人知れず鎮座していた。
鳴門海峡は千年の時を越え、その雄大なるうず潮の底に、ある女を封印した殺生珠を守り続けてきた。
しかし、鳴門海峡の隠された封印の地としての役割、それはやがて人々の記憶から忘れ去られていった。
とある一族の間に密かに秘密文書が保持されていた。だが、それも戦乱や焼失などを経た。それらの記録もすでにこの世になく……
ピキッ
殺生珠、この珠は特殊な方法で作られた特別なものだった。
千年以上前、ある雷鳴の轟く鳴神の夜のことである。黒雲は低く垂れ込め、山より放たれる火の息吹はその地を赤く包み込んだ。
獣も鳥も近寄らぬその地。一人の陰陽師が佇んでいた。帝から命じられて数々の術を極めし陰陽師だった。
彼の前に美しい女が横たわっていた。その女は……朝廷を乱した絶世の美女だった。女は意識を失っていた。それでもなお、彼女の妖気は夜風を凍らせた。枯草をしおれさせた。ただならぬ禍々しい妖気がその地を震わせていた。
陰陽師は女を追い詰めた。激戦の末にとうとう討ち果たした。しかし女の魂は死すら拒んだ。
横たわる女の下の地面が割れた。見る見る間に大地の裂け目から炎が湧き出た。女は……、湧き出た炎に包まれた。そして……珠に姿を変えた。
その珠は火山の地脈の力を吸っていた。火山の毒素をも取り入れ、禍々しく輝いた。そして……硫黄と毒気を……、脈動しながら吐き出し始めた。
「生き物の命を喰らう珠、殺生珠、あるいは殺生石」と後世に呼ばれる所以である。
封印を施したのは鬼神すら従える陰陽師の霊力だった。彼は山の神や火の神の力を借りた。地脈の霊脈気、星命エネルギーを用いて女の鎮魂を行った。
男は幾日にもわたって断食を行った。体内の俗なる成分を穢払により清めた。浄身開放を行った。彼は命をかけて、自らの魂の穢れを一掃したのだった。
彼の命を賭した願いが聞き入れられた。地の神、水の神、火の神、気の神が応じた。Τέσσερα στοιχεία、すなわち万物の根源の力、自然界のありとあらゆる力がその場に集められた。
山は呻った。風が唸った。珠の中から……女の哀しい悲鳴が響きわたった。
男は夜を徹し幾重もの祝詞と真言を唱えた。女の力を、石の奥深くに封じ込めるため……、いくつもの材料がつぎ込まれた。
彼は神聖なる地脈エネルギー、霊脈気を含んだ噴石を命を懸けて採取した。彼は大地から湧き出す高温の蒸気浴びて大やけどを負った。彼はその石を白布をもって禊いだ。
彼はその石に、梵字(神仏を1文字で象徴した強い力をもつ神聖な文字)を刻んだ。
さらに術式を行う自らの拳には強い力を持つ呪印を刻んだ。彼の拳から地が滴り落ちた。
神力、仏力、地脈エネルギー(霊脈気)、人の生命エネルギー、さらには霊魂エネルギー。これらを融合させる大掛かりな術式が施された。
女が変化した塊を覆うように噴石がくり抜かれた。表面には梵字が刻まれていた。それらを包むように白布で覆われた。白布には霊薬がかけられた。
術式が行われた。術式の後、一つ霊珠があらわれた。梵字が刻まれた珠の表面には……、霊獣の毛並みがごとき流紋模様が浮き上がっていた。
嵐が訪れた。やがて……、重苦しい静寂が訪れた。
長い時が流れた。術を施した陰陽師はすでにこの世を去った。それでも毒気の噴出は止むことがなかった。
人々はこの石の周囲に近寄らないようにした。陰陽師たちは、さらに神聖な結解を重ねがけした。
ある時、若い陰陽師が大海原によって、うず潮の流れによって……、霊珠を清め続けられないかと考えた。
彼と仲間たちは霊珠を命がけで運んだ。そして、鳴門のうず潮がおさまる時を辛抱強く待った。
その時を狙いすまして船が出された。
ドボン
霊珠は鳴門海峡の海底深くに沈められた。
ジュウ!
海に沈められてしばらくは海に白い靄のような煙のようなものが立ち上り続けた。
彼らは、(珠の中で今なお女がうごめいている)、そう信じた。
人々は海岸から夜ごと日ごとに祝詞を唱え続けた……
殺生珠は……、神聖な結界は……、こうして守り続けられることになったのである。
女を封じた伝説の霊珠、殺生珠は鳴門海峡の海底深く鎮座することになった。やがて海面から白い靄は立ち上らなくなった。
いつしか祝詞は唱えられなくなった。そして長い悠久の時を経てその記憶は忘れ去られていったのである。
人々の無意識の記憶は今日、淡路島の浄瑠璃に受け継がれている……。
ビキィ
珠にヒビが……入った。まぶしい太陽の輝く真夏の午前中だというのに……、黄昏時のように空は茜色に染まった。悠久の波が岩礁に白く砕けた。
潮風は塩と共に冷ややかな瘴気を運んできた。珠の封印に小さな亀裂が現れた……
音もなく……、何かが崩れていった。
海峡の底、殺生珠の奥底にうずくまる女は、まどろみの中で冷たい痛みを感じていた。禍々しい闇が静かに忍び寄った。そして……、彼女の内へ染み込んでいった。
悲しみと悔恨、怒りと絶望。かつて人として暮らし、人を愛した彼女の情念は……、千年の時を越えて封じられつづけてきた。
「誰か……助けて……」
声は水泡のように儚く消えた。か細い思念は誰に届くこともなかった。ただ暗黒の邪気だけがその思念をとらえていた……
邪気は……、彼女を狙っていた。彼女を繭として強烈なる怪異を生み出そうと……
しかし彼女に施された結解はあまりに強かった。強力な力を持つ邪気といえど、容易に結解を貫くことはかなわなかった。
剣奈との闘いにより増幅された邪気の力が幾重にも重ねられた。怪異が敗れる時、それらの中に無念と執着が刻まれた。それらは次々と殺生珠のもとに運ばれた。
それらの念は……、徐々に……、その強固な結界にダメージを与えていった。
そして今。邪気はついに、殺生珠にヒビを入れることがかなったのである。
ビキィ
殺生珠の側面にヒビが走った。そこから……、黒煙がごとき邪気が……、忍び込んだ。そして……、彼女の心の隙間を黒く染め始めた。
封印の強力な守護の力は、ついに邪気の侵入を阻む霊力を失いつつあった。
邪気は……、彼女の意思に抗って侵略を進めた。
まるでおどろおどろしい漆黒の絵具が……、清らかなる和紙に垂らされたようだった。
彼女の魂は……、徐々に闇に塗りつぶされていった……
彼女は抵抗した。千年前の記憶にすがった。誰かを愛したぬくもりを思い出そうとした。
しかし……、邪気の暗黒の力は徐々に彼女の心をむしばんでいった。
海峡の潮が荒れ狂った。台風が接近するような重苦しい空が海峡を覆った。
雷が走った。波は幾重にもぶつかって島の断崖に激しく打ちつけた。海鳥たちは群れを成して逃げ惑った。
まるで……、霊珠が禍々しい邪気に呼応するかのようだった。
鳴門の自然が……、不穏に震えていた。
ゴゴゴコゴゴ……
海底の黄泉の扉がひとりでに開かれていくようだった。太古の魂の鼓動が響いた。
淡路島南端に伸びる大地の裂け目「中央構造線」
その深き亀裂は太古より島の「生」と「死」を分かつ境界だった。地殻の奥底の悲鳴を絶えず呑み込み続けてきた。
千年の封印を抱えて海底に鎮座していた霊珠から不穏な脈動が放たれた。
珠の奥では女の意志に反し、禍々しき邪気が……、彼女を黒く染めていった……
雷が中央構造線の断層をなぞるように走った。閃光が光った。淡路島南部の山々が黒々と影を連ねた。
パリンッ
地の底から響く低いうなりがついに珠に残った浄なる気をかき消した。
島の大気は淀んでいった。まるで大地が呻き哀しんでいるようだった。
いまや殺生珠の表面に蜘蛛の巣のような亀裂が広がっていった。珠を封じていた力がついに邪気の闇の力に押し負けたのだ。
亀裂から中央構造線の地熱がごとき赤黒い光が走った。どろりとした邪気の瘴気が霊珠から滲み出した。
珠から漏れ出した闇の力は……、この地の根幹たる中央構造線にさえ呼応しはじめた。
断層の奥底に眠る地霊たちすらもざわめかせた。
パキンッ
ついに……、珠は乾いた音を立てて真ん中から割れた。
その瞬間、封印の霊力は霧散して消失した。
珠の中に渦巻いていた忌まわしき邪気は……、白濁した女の記憶を吹き飛ばすように浸透した。
中央構造線の断層が禍々しく光った。島の南を貫く稲妻のような光の帯となって暗くなった空に浮かんだ。
大気は黒く染まり、山肌の木々がざわついた。島の最南端によせる波も、正常な音を失った。
彼女の内なる叫びは誰にも届かなかった。悲しみも、自責も、愛も、すべての感情が、黒いナニカに呑まれ、塗りつぶされていった。
かすかな意識の残滓で彼女は思った。
「私が……私で……なくなる……」
ついに殺生珠の封印が断ち切られた。海峡の水は濁り、海面には黒き靄が現れた。澱むような不気味さが鳴門海峡全体ににじわじわと広がるようだった。
大気は重く圧し掛かり空は鳴き声を失った。海は深い呪詛を唱えるような響きを宿した。
封印を失った珠から吹き出した黒き禍々しき邪気は……、空と陸地を這って鳴門海峡を飲み込んだ。
女の姿は……、邪気に包まれて徐々にその輪郭を曖昧にした。黒い脈動に覆われた。
まるで彼女の姿は……、夜の闇に溶けていくようだった。
彼女の意志は深い闇の中でなおも彷徨い続けた。
「ただ……誰かに……
ただ誰かに……
もう一度愛されたかった……」
そのか細い思念もやがて闇に消えた……
鳴門海峡の海面が禍々しく泡立った。そこはもはやかつての穏やかな潮流が流れる場所ではなくなった。
海面から……、ソレがあらわれた。