147 二人の休息 鳴門海峡の海底に蠢く闇
ビュウ
ゴーー
風が強く吹いていた。キラリ。まぶしい真夏の太陽に剣奈は目を眇めた。陽はまだ高くない。しかし夏の太陽は力強く、周囲の森や山肌、海面を鋭く照らしていた。
黒猿との闘いを終えた剣奈たちは汗ばんだ身体を風にさらしていた。剣奈は来国光を納刀して岩陰に腰を下ろした。
剣奈は熱い息をつき、額を流れる汗を手の甲でぬぐった。東南東の太陽が森の梢や露の滴を白く照らしキラキラと輝いていた。強い海風と太陽が剣奈の濡れたシャツを一瞬にして乾かしていった。
「玲奈姉、すごいね。いつの間にあんなすごい業みにつけたの?」剣奈が目を丸くして問いかけた。
「……別に大したことじゃねぇ。ただ、生き残るために必死で引き金引いただけだ」
玲奈がぶっきらぼうに答えた。だがその頬はほんのり赤かった。瞳にはいまだ緊張の残滓が揺れていた。
「でも曲がったよね?敵の動きに合わせてビュンって。ボクの目にもはっきり見えたよ?」 剣奈が無邪気に身振りで曲がる弾を再現した。
「やめろ馬鹿」玲奈が照れて顔をそむけた。
『ふむ……そなたの射撃、確かに常人には成せぬ弾道を描いておったの』来国光の念話が響いた。
『実に仰天したぞ。おぬしやはりタダビトではないの。あるいは剣奈と並び立つ英雄であるやもしれぬ』
「……やめろっつってんだろ。アタイは剣奈を守るために撃った。ただそれだけだ!」玲奈がぶっきらぼうに言った。
「玲奈姉……ありがと……」剣奈のか細い声が風に溶けた。
剣奈のにっこりと笑うその顔は……、無垢だった。純真だった。まっすぐだった。玲奈への確かな信頼に満ちていた。
玲奈は……あまりにまっすぐな剣奈に、言葉が出てこなかった。
ヒュウウ
強い潮風が吹いた。玲奈の髪が煽られた。玲奈は剣奈の小さな頭をわしわしと乱暴に撫でた。
「チッ…… ま、まあ次はもっと上手く護ってやるさ」玲奈が優しく言った。
夏の陽射しの下、二人の……闘う者としての……その絆がお互いの心に深く刻まれていった。平和な安らぎが二人の心の奥まで満たしていた。
熾烈な闘いの余韻はまだ剣奈と玲奈の身体に残っていた。しかし二人は今、自分たちが生きていることを全身で感じていた。きらめく光の中、海は静かに白銀に輝いていた。陽光は輝き、世界がすべて一つに溶け合うような優しい時に包まれていた。
ビュウ──
その二人を……平和な休息にひたる二人を……強い風が吹き抜けていった。玲奈は異変を感じた。
(黒震獣は倒した。そのはずだ。しかし……何か変だ。おかしい……)
玲奈は目を細めた。木々の切れ間から遥か南西の渦を巻く海峡を見つめた。潮の匂いと風のざわめきが彼女の肌を撫でた。
強風にさらされ、鳴門海峡の水面は突然波が吠えるようにさざめいていた。むせかえる潮の香りの中、渦の底で……封じられたナニカ――殺生珠の宝玉の中で……黒く禍々しい闇が脈動していた。
玲奈が妙見山の闘いや先山の闘いで感じた違和感。倒したはずの強敵から何かが逃げる気配。逃げたナニカが空高く上り、そして遠く南の方角に飛んでいった気配。玲奈がこれまでの淡路の闘いで感じていた違和感……その正体がいま姿を現そうとしていた。
それは固く強く封じられた海底の殺生珠を解き放つための企みだった。邪気の小賢しくも邪悪な企みだった。
(どこかおかしい……。平和な情景の中のはずなのに……なぜか心がざわつく)剣奈は心の違和感を抱え、改めて海峡を見渡した。
ドクン
その時である。妙見山の闘いで倒したはずの強敵の影が不意に剣奈の心に蘇った。風の奥に満ちるのはただの潮の匂いだけではなかった。
不穏なざわめきが風にまぎれた。先山で剣奈を死の淵に追いやったあの恐ろしい強敵の……巨猪の気配さえ……、波のひそみに溶け込んでいた……
玲奈が見たいくつもの逃げる黒影……、それらが目指すものはただひとつだった。
鳴門海峡の底深く、千年以上も眠り続けてきたソレはいた。ソレは固く封じられた結界の中にいた。ソレのくびきを解き放つ。封印を破壊する。そのためだけに……邪気は怪異を剣奈たちに差し向けた。倒された怪異の無念の想い……それは……倒れた怪異の魂を離れ……荒ら巻く渦の奥底を目指した……たとえ怪異本来が邪気のくびきから解き放たれ、平穏を取り戻そうとも……
幾重にも張り巡らされた強固な結界。それがいまや揺らぎ始めていた。
ミシッ
深い海の底で何かが軋む音がした。なにかがひび割れる音がした。渦潮は突然いっそう鋭く速く流れ始めた。
陽射しの下で眩しくきらめく波間から、誰にも見えない禍々しい気配が静かに立ち昇り始めた。
ミシッ ミシッ……
まだソレは割れていない。結界は解かれていない。しかし永く保たれていた封印は今や息絶え絶えに鳴動を繰り返していた。今にも砕けんとする鼓動が海全体を震わせていた。
剣奈の胸に抗いがたい不吉な予感が満ちていった。すべてが始まる。その刹那を待つ世界の静寂。それだけが今、確かに響いていた。
ピキッ……
「剣奈あっ!海の底が禍々しく黒く光ってやがる!」
人に見えざるものを視る玲奈の眼が海底で禍々しく光る闇を捉えた。
『剣奈っ!来おるぞ何者かが海底で蠢いておる!』
邪斬の異名を持つ名刀、意志を持つ霊刀である来国光が剣奈に警鐘を鳴らした。
その時、海峡の底で確かに何かが目覚めかけていた。すべては千年前──あの封印の夜から始まっていた……
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*剣巫女シリーズ『千年たっても愛してる 伝えれなかった恋心 いまあなたに届けたい』の現代パートの本編版になります。いよいよ「本編」が追いつきました。