139 黄泉平坂 絶望の死闘 黒巨猪に砕かれた剣奈
「あああああああんんんん♡」
剣奈は来国光から剣気を吸い上げ丹田に溜めた。
「あ♡、ああ♡、あああああ♡、ああああああん♡」
猛烈な快感が剣奈の身体を貫いた。猛烈な快感。それは。ボロボロに砕かれずきずき痛む肋骨の痛みを。ドロドロに溶かされ無残にただれる身体を。無数の痣と擦り傷で覆われた身体全体の痛みを。そして傷つけられた内臓が醸し出す痛みを。すべての痛みを快感に変えた。勇気に……変えた……。
鞭にたたかれ痛めつけられる身体。いつしかその痛みそのものが猛烈な快感に変わるという。哀しき自己防衛の欺瞞。しかし欺瞞による快感であったとしても。死にゆく肉体が最後にあふれださせたエンドルフィンとドーパミンの哀しい働きであったとしても。その時の剣奈は突進してくる黒巨猪を見据え、笑った。
ヒュッ
剣奈は黒巨猪の突進を軽やかな跳躍で回避した。
「シュ、シュ、シュ、シュ、あんん♡、スラーーーシュ!」
剣奈は跳躍から着地した。振り返りつつ、連続して五回の斬撃を放った。
ヒュン、ピシュ
ヒュン、ピシュ
ヒュン、ピシュ
ヒュン、ピシュ
樋鳴り音と飛来音が小さく、しかし鋭く四度鳴り響いた。そして……最後の一撃。その一撃だけは他の振りとナニカが違った。
五回目の斬撃の前、一瞬だけ間がおかれた。瞬間的にさらに剣気が込められた。
ッビュッ
ドゴォッ
瞬時に溜められた力が解放された。一拍おかれて放たれた剣気の飛針。それは……巨大な黒猪に向かって飛んだ。
ビシュ、ビシュ、ビシュ、ビシュ……
ドゴォォォォォォッ!
同じ軌道で放たれた白黄輝の飛針。巨大猪の寸分違わぬ場所を貫いた。忠太の穿った矢の着弾した同じ場所を……
四発の飛針は次々と巨大猪を貫いていった。巨大な猪の分厚い皮を。そして分厚い肉を。次々と、徐々に深く……貫いていった。
ビカッ
四発目の飛針が命中した。その飛針のあけた穴から……、黒く禍々しく輝くナニカ……核が……露出した。
ビキィィィィィッ
最後の飛針は渾身の針。いや白黄の矢。禍々しく黒く輝く核を……、白黄に輝く矢が貫いた……
パキン…… サラサラサラサラ……
ナニカが割れる音がした。砕ける音がした。黒巨猪の黒く輝く黒核は……貫かれ、砕かれた黒核は……サラサラと粒子に分解されていった。崩壊していった。
そしてそこを崩壊の起点として……巨大な黒猪の全身が……空中に解けた。
玲奈は黒巨猪が塵と化し空中に解けるさまを見届けた。そして視線を遠くに向けた……。
ヒュウ
風が吹いた。
そこには寸瞬前まで禍々しく存在していた巨大な黒猪の気配は微塵もなかった。ただ風の吹き荒れる空間だけが存在した。
ドサッ
黒巨猪が塵となって空中に霧散したのを剣奈は見届けた。そして……膝をついた。そのまま地面に倒れた。糸が切れた操り人形のように。あっけなく…… 無残に……
「剣奈ぁぁぁぁ!」
玲奈は叫んだ。剣奈に駆け寄った。剣奈はボロボロだった。太ももから腰、肚、胸にかけて黒く溶けていた。ドロドロに爛れていた。
まるで……大量の硫酸と硝酸をぶちまけられたように……。煙すら立ち上ってた……。肉が解けて焼けただれる臭い……無残さだった……。
剣奈は口から顎、胸にかけて、ドロドロの赤い液体にまみれていた。剣奈の内臓は破壊されつくしていた。身体の内部では傷だらけになった内臓から大出血していた……
ゴホッ
血が……剣奈の口から吐き出された。胸が変形して陥没していた。ぐしゃぐしゃだった。明らかに……肋骨が砕かれていた。粉砕されていた。
「そうか……。よく……闘ったよ……、剣奈……。オメエは立派に闘った。クソ野郎の巨根をかみ砕ったんだ。粉々に粉砕してやったんだ。剣奈……、オメエはアタシの……、アタシの……ヒーローだよ……」
玲奈は死にゆく剣奈の身体をそっと撫でた。そして剣奈の頭を自分の太ももに乗せた。
どう見ても剣奈は助からない。ならば……、ならば、せめて安らかに見送ってやろう……。
「アタイの穢れた太ももで悪りぃ。が……、地面よりゃぁましだろ?」
玲奈は自嘲気味にほほ笑んだ。
「ボロボロじゃねぇか」
玲奈は微笑んだ。そして静かに涙を流した。
瞼を閉じた剣奈はすでにその微笑も……見えていなかった。涙を流す玲奈。その姿さえ……その瞳には映っていなかった。
『………………』
来国光はもはや何の反応も示さなくなっていた。玲奈には見えた。剣奈の肚の糸が……、剣奈と来国光を繋ぐ光の糸……が薄れ……、消えようとしているのを。
ブルルルルルルル
「「剣奈ちゃん!!」」
バイクの疾走音がした。そして二人の男の声が響いてきた。遠くから闘いを眺めていた藤倉がバイクを走らせて戻ってきたのだ。
遠目からでもわかっていた。無残な……闘いだった……。剣奈の必殺技が効かないのを見た。巨大な猪にぶち当たられる剣奈を見た。なすすべもなく宙をきりもみ舞う剣奈を見た。地面に激突する剣奈を……見た……
藤倉の心臓は早鐘のようにうなりをあげていた。しかし激闘の場に駆け寄ったとて、自分がただの足手まといになるのは目に見えていた。
いや、剣奈はヘイトを向けられた自分をかばっていたろう。そして藤倉をかばって、黒い巨牙に、巨根に股から串刺しにされ、喉から巨根を突き出させる剣奈を……藤倉はありありと想像して……しまった……
こんな時にすら反応してしまう。藤倉はあさましい自分を自己嫌悪とともに懺悔した。
「そこで止まれ、くずカス野郎がぁ!」
玲奈は目ざとく藤倉の変化をとらえた。心の底から藤倉を軽蔑した。涙は一瞬にして引っ込んだ。そして藤倉への深い侮蔑の感情が玲奈を支配した。
人類すべてのために。地球の生命を守るために。己のすべてをささげた剣奈。そしてボロボロにされてしまった剣奈。まさに命尽きようとしている剣奈。
(このクソ野郎は、そんな剣奈を前によくもそんな。そんなあさましい感情を抱けたもんだ。クズが。ゲスが。クソ童貞がっ)
玲奈が剣奈に膝枕をしていなければ。藤倉はおそらく今頃……玲奈に組み敷かれ……、頭に無数の拳打を浴びていたことだろう。
「剣奈ちゃん……」
山木は痛ましい目で剣奈を見た。身体はドロドロだった。全身すべてが血塗られていた。痣と擦り傷だらけだった。そして……胸は……無残に変形していた。陥没していた……
(もはやこの娘は……助かるまい……)
三者三様の想いを抱いて……、全員が……死にゆく剣奈を見守っていた。ただ茫然と……
「ちょっと寝るね……。疲れた……かも……」
剣奈がつぶやいた。剣奈の身体からすべての力が消えた。剣奈の意識は暗い闇に包まれた。まるで暗い空間の入り口を……さらに大岩が厳重にふさいだように……。
剣奈の命の火がまさに失われようとしていた。三人は痛ましい心を抱え、剣奈を看取っていた。
剣奈は……黄泉平坂の境界にいた……。