127 グニャグニャのナニカ 海底に潜む黒き刺客
グニャリ
海底で何かが動いた。もやもやの黒い塊が中心に集まった。グニャリ、グニャリ。グニャグニャした軟体のナニカは陸に向けてノソリと動き出した。
『剣奈、新手じゃ。東じゃ』
「東?海の方?何も見えないけどなあ」
「海の中に何かがいやがる。こっちに向かって動いてる。グニャグニャした気持ち悪い動き方だぜ」玲奈が邪を見通す目でナニカを捉えた。
グニャグニャのそれは大きく膨らんだ。と、急に動きを変えた。水を海底方向に激しく噴き出した。その身はロケットのように海中を走った。水面に向けて。剣奈たちを目指して。
ブシャア
ブシュッ
それは水面を飛び出した。そして剣奈たちに向かって勢いよく何かを噴き出した。黒く液体のような塊だった。
「ん♡」
剣奈は咄嗟に足に剣気を流し込み、黒いナニカに向かって斜め上にジャンプした。元の位置で迎え撃っては黒いナニカが玲奈姉たちに当たってしまうかもしれない。到達前の迎撃を試みた。
「んんん♡ライッ」
剣奈は咄嗟に剣気を肚から刀身に流した。左足は踏み込み地面を大きく蹴り美しく伸ばされていた。上半身は左足からすらりと一本の線のように伸びた。
右足は膝が曲げられ、剣奈の幼い胸に近づいた。左腰から来国光が斬り上げられた。左逆袈裟斬り。
ヒュン
鋭い樋鳴りが響いた。来国光の白黄輝の刀身が大きく伸びた。来国光は黒い液体のような塊を見事に斬り裂いた。黒い液体状の塊は消滅した。
「何だあれは?何であんなヘンテコな奴が出やがる」玲奈が言った。
「蛸の怪異だね。明石は蛸が有名なんだ。そして蛸に関する怪異譚もあってね。「立石の井」というんだ」藤倉が説明を始めた。
「なんだそりゃ」
「昔、明石に二人の美女が住んでいたんだ。大蛸がその二人に懸想した。そして海に引きずり込もうとしたが退治された。蛸壺漁のもとになったともいわれている。昔から蛸と美女を好む人は多いて。葛飾北斎の「蛸と海女」は有名だ」
藤倉は不謹慎にも墨にまみれた剣奈が蛸足に全身をからめとられるのを思い浮かべた。剣奈は墨を全身にかけられ、口に足をねじ込まれ、幼い足にも足が絡みつき、股間を強烈に吸われていた。
藤倉の想像なかで剣奈は無理やり与えられる快感に涙を流し、もだえていた。藤倉はそんな剣奈を想像して身体の一部を反応させた。
「蛸と海女だぁ。キッショ。この変態野郎が」
玲奈は目ざとく藤倉の身体の変化を察し、絶対零度の軽蔑の目を向けた。
剣奈は空中でくるりと前転し着地した。追撃を行おうと黒震獣蛸を見た。ドボン。蛸は海中に沈みこんだ。
「何あれ?海の中に針飛ばして効くの?」
『わからん。じゃが威力がなくなりそうじゃの。剣気の無駄じゃろう。海面に飛び出してきたところを狙うぞ」
「ん!」
バシャア
蛸がロケットのように海面から飛び出した。上空でバレルのような漏斗が剣奈に向けられた。大蛸の漏斗から墨のような黒い塊が勢いよく撃ちだされた。
ブシュッ
「んんん♡ライッ」
剣奈は向かってくる墨に向かって力強く右足を踏み込み、右上から左下にかけて鋭く斬り下げた。袈裟斬り。
ヒュン
刀身は白黄輝に伸び、黒く禍々しい墨を樋鳴りの鋭い音とともに斬り裂いた。斬り裂かれた黒墨は空中に霧散した。剣奈は追撃を加えようと左腰に来国光を構えて腰を落とした。黒蛸は海中に逃れた。
「クニちゃ、このままじゃ」
『うむ。ワシらの剣気が削られるだけじゃの。ジリ貧じゃ』
バシャア
今度は左に離れた海面で蛸が飛び出した。空中で黒蛸は禍々しい黒墨を玲奈たちに向けて噴き出した。
「あっ!」剣奈は叫んだ。間に合わない。
玲奈は左に跳んだ。藤倉は山木を抱えて右斜め前に倒れこんだ。
ズザザザザ
藤倉と山木はヘッドスライディングのように滑りながら地面を移動した。
黒墨は三人がよけた空間を通過し、背後の地面に突き刺さった。
ブシュウウウウウ
着弾した地面の草が禍々しく黒く萎びて崩れた。
「食らったら死ぬぞ!」
藤倉は叫んだ。山木は蒼白になった。彼はまさかこれほど命がけの調査になるとは思っていなかった。大学の学際交流会で仲の良くなった年下の教授と淡路島の地質と伝承について意見を交わすだけと思っていた。
学問に興味のある若人の参加も好ましく思っていた。ずいぶん小さな子が難しい話に興味を持つと不思議に思った。しかし藤倉の教え子のお嬢さんと聞いて納得した。小さいころから英才教育をしているのだと理解した。ガラの悪いお嬢さんは藤倉君のバイク仲間で淡路島ツーリングをしに来ただけだと思っていた。
妙見山フィールドワークの検討会では伝承に基づいてずいぶんと風呂敷を広げるのだと思った。歴史学者とはこんなものなのかと思った。事実を重んじて淡々と分析結果を述べる理系の研究者に対し、ずいぶんと叙情的だと思った。まさかそれが修辞的表現でなく事実だったとは。
山木は彼らが真剣に言っていたことを軽く聞き流したと後悔した。襲ってきた黒犬に瞠目した。必死になって銃を撃つ藤倉君と牛城さんに死への恐怖を感じた。とんでもない動きと業を見せる剣奈ちゃんに、人ならざるものを感じた。
黒蛸の怪異、さらには吐き出した禍々しい黒墨が恐ろしい劇薬だということを目の当たりにした。後ろから漂うただならぬ臭気を嗅いだ。体に悪そうな激臭だった。これは夢ではない。現実なのだと思い知らされた。
(うわぁぁぁぁぁぁ)
山木は心の中で絶叫をあげた。口に出すのは歯をくいしばって耐えた。年長者の自分がここで取り乱すわけにはいかない。
丸腰の自分が足手まといになるのは仕方がない。しかし取り乱して彼らに負担をかけるわけにはいかないと思った。なぜなら。それは死に直結すると本能的に理解してしまったから。
「はははは。すまないね。藤倉君、君の言うことは歴史学者特有の修辞表現だと思っていたよ。大げさな寓話だと思って聞いていたよ。事実だったんだね」山木はかろうじて口に出した。
「わかります、先生。私も久志本さんが必死になって説明するのを信じてあげられなかったですから。無理もないです。だれでも同じです」
「寝言は寝て言いやがれ!おしゃべりなら大学でしやがれ。剣奈はいま必死に闘ってんだよ。うちらを守るためにな!」玲奈が吼えた。
剣奈は黒蛸への勝ち筋が見えず、唇をかみしめた。