107 甲山の聖遺物を守れ!あれは人じゃない!そして狙われ泣き叫ぶ藤倉
『行くぞ!』
「ん♡」
剣奈は左足を引き、腰を落とした。柄に下から親指と人差し指の谷間を当て臨戦態勢となった。順手抜刀の構え。
『黒震獣念、人型じゃの。剣奈よ行けるか?甲山に埋められた宝物を繭に実体化させた怪異じゃ。剣奈、神聖なる聖物を汚す怪異じゃぞ?人を模した狡猾な怪異じゃ。斬り捨てて聖遺物を守るぞ?』
人型が苦手な剣奈である。剣奈の心を軽くしようと、来国光は心を配った。あれは人ではない。聖遺物を汚す邪気であると。
「わかった!ん♡」
剣奈は来国光を信じた。あれは人ではない。聖遺物を穢がす邪気が自分を惑わすために人の形をとっただけであると。
自分がやらねばならぬことはただ一つ。邪気から聖遺物を守ることだと。守らねばならぬと。
気持ちを切り替えて使命感を燃やした剣奈である。今や剣奈の目には、それらは人でなく、人の姿をしたおぞましき怪異にうつった。
剣奈をよく理解している来国光ならではの誘導である。
人型の黒震獣念が来た。その数十体。隊列も何もなく。亡霊のようなおぞましさで。
いつもの剣奈であれば、お化けの苦手な剣奈であれば、幽霊や邪鬼のようなその姿に怯え、怯んだであろう。
しかし今の剣奈にはそれらは聖遺物を穢す汚らしいゴブリンに見えた。そして。
「ん♡ シュッ」
剣奈は刃が下を向くように鞘を返した。右手の人差し指と親指の谷を上から柄にそえ、抜刀し、斬り上げた。刃閃は左逆袈裟斬り。左下から右上への斬り上げである。
ヒュン ヒュッ
樋鳴りの音がした。そして白黄輝の飛針が剣奈から見て右端で重なる二体のゴブリンに向けて飛んだ。そして白黄の飛針に貫かれた二体のゴブリンはあっけなく消滅した。残八体。
「ん♡シュッ」
剣奈は右上まで斬り上げた腕を返した。そして今度は右上から左下に刃閃がきらめいた。
ヒュン ヒュッ
樋鳴りの音とともに飛針が放たれた音がした。袈裟斬りの刃閃。今度は左端で重なる二体に針が飛んだ。
ピシュ ブワッ
左端の二体のゴブリンも白黄の飛針に貫かれた。そしてあっけなく黒霧と化して空中に溶けた。二体消滅。残六体。
来国光は左腰の位置にまで振り切られた。そして腕が返された。
「ん♡シュッ」
剣奈は小指、薬指、中指の順に連動して力を込めた。同時に腕は前方に振られた。
ヒュン ヒュッ
掌の中で来国光が回転した。それに前方への腕の力が加わった。刃閃は唐竹割り。そして切先から白黄輝の飛針が放たれた。
飛針は中央の重なる二体を貫いた。さらにその後方にいた三体目のゴブリンの胸に針は沈んだ。続けて三体のゴブリンが黒霧と消えた。瞬時に七体ものゴブリンが消滅した。残僅かに三体。
「ん♡」
剣奈は駆け出した。装備だけはきらびやかなゴブリン達。それらのうち二体が剣奈に向かって走り出した。一体のゴブリンは兜を被っていた。もう一体は剣を手にしていた。
最後の一体は走らずにその場に残った。それは弓箭を手にしていた。ゴブリンは弓を引き絞った。そして。
ヒュン
ゴブリンの黒い弓箭から黒い矢が放たれた。上空に向け角度をつけて放たれた。黒い矢が飛んだ。
藤倉に向けて。
「ん♡ 」
剣奈は跳んだ。黒矢ははるか上空。その矢の移動は人の跳躍ではとても届かない。
しかし剣奈は届いた。足に込められた剣気の力によって剣奈の跳躍力は人の能力をはるかに超えて高められていた。
「ん♡」
ヒュン
左腰から来国光が振られた。左腰から右肩の方向に向けて。斜め上に向けて。その刃閃は左逆袈裟斬り。
ブワッ
来国光に切り裂かれた黒矢は消滅した。
「ん♡シュッ」
剣奈は振り切られた右上で腕を返した。そして今度は右上から左下に向けて刀が振り斬られた。
ヒュン ヒュッ
袈裟斬りの刃閃。そして白黄輝の飛針が飛んだ。
ブワッ
白黄の針に貫かれた。弓兵ゴブリンはあっけなく消滅した。残りは前方に走っている二体のみ。
しかしその二体が狙うは、
藤倉
「ん♡」
剣奈は振り切った勢いのまま右肩を入れ身体を回転させた。剣奈の胸は、ほんの僅かな膨らみを見せる胸は、空を向いた。
胸が上空を向くわずか前、剣奈は腹筋に力を入れた。両足が美しく上方からまわされた。歌舞伎のとんぼ返りに見られる業である。見事なの宙返りであった。
シュタッ
剣奈は先ほどまでの進行方向とは真逆の向きで着地した。丁度藤倉を視界におさ覚める向きである。
「ん♡」
剣奈は着地と同時に大きく膝を曲げた。先ほどまでの前方(いまは後方向き)への推進力、そして落下エネルギーを足先、足首、脹脛、膝、腿、腰に筋肉を縮めて力を溜めた。
そして。
「ん♡」
その溜められた力を一気に解放した。
ブォン
今、剣奈はすさまじい速さで跳躍していた。大きく跳んでいた。
藤倉に向かうゴブリンたちの背に向けて。
針を飛ばせば瞬時に二体の黒ゴブリンは消滅させられていただろう。
しかし剣奈は針を飛ばさなかった。白黄輝の飛針は黒震獣を瞬時に滅する威力を有する。
万が一藤倉に当たったらどうなるか?その答えは剣奈には分からなかった。来国光に聞く時間さえ惜しまれた。
だから跳んだ。そして駆けた。ゴブリンの背に向けて。
剣奈はすさまじい速さで疾走していた。
「ん♡」
剣奈は疾走しながら刀を振りかぶった。そしてそのまま袈裟斬りに斬って落とした。右上から左下への刃閃がきらめいた。
ヒュン
ブワッ
樋鳴りの音がした。兜を被ったゴブリンは背中から右肩、そして腹に至るまで存分に斬りさかれた。そして黒霧となって空中に溶けた。残僅かに一体。
しかしその一体は、最後の一体は、藤倉に向けて駆けていた。青銅の銅戈を持って。
剣を振りかざして疾走してくる黒き人型の怪異。平和な時代で生まれ育った藤倉である。人から殺気を向けられたことなど彼の人生で一度もなかった。
しかし今、恐ろしい怪異が剣を振りかざし、殺気を放ち、自分に向かってくるのである。
藤倉は恐ろしかった。恐怖に支配された。その恐怖を振り払う方法など思い浮かばなかった。
「ゔわぁぁぁぉぁぁぁ!」
だから叫んだ。恐怖に支配されるままに叫び声を上げた。
そして逃げた。年甲斐もなく叫び声を上げて懸命に駆けた。
しかし藤倉、運動習慣のない中年男である。息は切れ、心臓は破裂しそうにうなりをあげた。脇腹が猛烈に傷んだ。
けれど藤倉は駆けた。立ち止まった時が死ぬ時だと自覚した。そして、剣奈の足手纏いにはなりたくなかった。
いや、すまん。藤倉よ。手遅れだ。君が気高いと思っている自己犠牲は偽物だ。すでに……思いっきり足をひっぱている……
「ん♡」
剣奈は右足を力強く踏み込み剣気を流し込んだ。右足がはち切れんばかりに膨れた気がした。
ヒュッ!
そして跳んだ。カタパルトから発射される戦闘機のように。剣奈は猛烈な勢いで跳んだ。
ズザァァァァ
藤倉は転んでいた。ぶざまに頭から地面に突っ伏していた。
もう走れなかった。青い顔をして倒れこんでいた。ぜいぜいと息を切らしていた。
藤倉は死を覚悟した。本望だった。無理を言って幽世に同行した。もとより命を投げ出す覚悟はあった。
藤倉は振り返った。今際の際、惚れた少女を目に焼き付けて死にたかった。藤倉は見た。人型黒震獣念の剣が……振りかぶられているのを……。
ゴブリンの顔は醜く嘲笑っていた。歪んだ笑顔だった。蔑んだ笑顔だった。
藤倉の目には……ゴブリンしか見えなかった……。愛しい剣奈の姿は……見つけられなかった……。
その時剣奈は跳んでいた。剣を持つゴブリンに向けて跳んでいた。剣奈の瞳に藤倉が転倒したのが映った。そしてゴブリンが剣を振りかぶるのが映った。まさに藤倉の命は絶たれようとしていた。刹那。
「ん♡シュッ」
ヒュン
来国光が水平の刃閃を描いた。来国光はいつの間にか逆手に握られていた。ゴブリンで見えなくなっていた剣奈の姿が急に藤倉の目前に現れた。
凛々しくも美しい姿だった。もう死んでもいい……。藤倉は思った。
ズザザザザザザザッ
剣奈は両足の踵で地面を削っていた。あまりにもの速度で剣奈は藤倉に向けて疾走し、跳躍していた。
あまりに勢いのついた跳躍であった。その凄まじい運動エネルギーを剣奈は踵で土を削りながら殺した。
ヒュウ
風が吹いた。そこには藤倉と剣奈しかいなかった。ゴブリンは……、剣を持った人型黒震獣念はどこにも見当たらなかった。
剣奈が跳躍しつつゴブリンの脇をすり抜けた際、逆手に握られた来国光がゴブリンの脇腹を存分に斬り裂いていたのである。剣気をまとった剣奈の刀で存分に脇腹をひき裂かれたゴブリンは、瞬時に浄化され、黒霧と化して消滅させられていた。
着地した剣奈は振り返った。剣奈は微笑んでいた。いつもの得意げなドヤ顔だった。満面のドヤ顔の笑みだった。しかしそのドヤ顔が、藤倉の瞳には慈愛の微笑みに映った。
藤倉は脱兎のごとく起き上がった。そしてそのまま剣奈を抱きしめた。泣いた。
死んだと思った。剣奈の姿を見ることもできないまま、醜悪な笑みのゴブリンに切り裂かれ、絶命したと思った。
生きていた。歓喜と安堵と恐怖と怯えがごちゃ混ぜになった感情は、藤倉の瞳と鼻から体液をダダ漏れにさせた。
藤倉は、剣奈を抱きしめたたまま、子供のように啜り泣いていた。