102 香雪美術館と香雪記念病院 剣奈、沸と匂の違いを知る
「さあ、目的地に着いたよ。ここから歩いて行こうか」
「はい」
藤倉が目指しているのは西宮協立リハビリテーション病院、かつての香雪記念病院である。
山崎豊子氏が『花紋』の盗用騒動中滞在し『白い巨塔』を執筆したとされる病院である。またここは村山騒動とのかかわりもあるなどさまざまな因縁の交差する場所である。
しかし今はそれよりも、
「剣奈ちゃん、香雪っていうのは、朝日新聞創立者の村山龍平さんの雅号なんだよ。龍平さんは刀を集めるのが趣味でね。集めた刀は美術館で見ることができるんだ。香雪美術館っていうんだけど、五十振りもの刀を所蔵してるんだよ」
『ほほう。それはまた豪儀じゃの』
来国光が反応したっ!
「はは、邪斬さんか。びっくりしたよ。そうだね、邪斬さんのお知り合いもいるかもしれないしね。それでね、この美術館では時に、大和国、山城国、備前国、相模国、美濃国、いわゆる五箇伝の刀を一気に見ることができるんだよ。壮観だよ」
『ほほう』
「君たちが冒険した備前だと重要文化財の太刀「正恒」があるよ。正恒は腰の反りが深く、鋒にかけてスラリと伸びた刀身が優美でね。刃文は小乱足入り、匂深く小沸付きで清々しいんだよ。邪斬さんと同じ山城伝だと重要文化財の太刀「吉家」があるよ。吉家は三条宗近の子と伝えられる刀工でね。三条吉家とも呼ばれてるんだよ。吉家は反りの浅い優美な細身の刀身で小乱と小丁子混じりで匂い深く小沸付く刃文が美しいよ」
「あ、三日月宗近しってる!青い服を着たカッコいいお兄さんだよね。ボク、舞台で何度か見たことあるよ。そういえば前に香雪参加の雪っての行ってね。山姥切国広さんとか、和泉守兼定さんかっこよかったなぁ。南泉一文字さんの怪しさもよかったよ」
剣奈よ、それはあきらかな君の勘違いだ。「こう」の音と「雪」と刀から連想したのだろうけれど、正しくは「江水散花雪」だ。千剣破がキャアキャア騒いでたので印象に残っているのだろう。
「なるほどね。君が刀剣女子なのはお母さんの影響もあるのか」
「うんそうだよ!小さいころから剣を担いで町中冒険してたんだ。あ、そういえば、「にえ」とか「におい」ってお母さんよく言ってるんだけれど、匂いのこと?クニちゃとっても甘い匂いがするんだよ」
「うん。きっとそれは丁子油の甘い匂いだろうね。いま私が言ったのはちょっと違ってね。君は邪斬さんの刀身をなんども見たろう?」
「うん。だってクニちゃはボクの相棒だもん。ボクがクニちゃのお世話してるんだよ!」
「ぶほっ。お、お世話かね。ちょっと言葉選びもそろそろ覚えた方がいいかな。美少女がおじさんのお世話っていうのは、ちょっと聞こえが、というか勘違いする人も出るかもね」
きょとんとする剣奈である。藤倉先生、ムダである。剣奈は本能と脊髄反射で話すタイプである。考えさせると何もしゃべれなくなって黙るぞ?
「ま、まあそうだね。ちょっと説明するね。邪斬さんの刃を想像しながら聞いてね。邪斬さんの刃は刃先は白くて、そこから白さの色が変わって、最後は鉄色になるでしょ?切れるところが刃先。白色と鉄色の境目が刃縁。刃縁のあたりに白くもやもやしてる帯があってるでしょ?それが模様を描きながら茎から切っ先まで続いてるでしょ?」
「うん!その長いのを指先でグイグイッてしごいてあげるとクニちゃとっても喜ぶんだよ!」
藤倉のマグナムが……
「ゆ、指でしご、、いや、ん、んんっ。なるほどね。拭紙で拭いてあげているんだね。それでね、その白い靄が霞のようにモヤモヤってしてるところと、ちょっと細かい粒がキラキラしてるところがあるでしょ?」なぜか少し前かがみになった藤倉が続けた。
「うん!」
「そのモヤモヤっとしたところが「匂」って言って、粒がキラキラってした所は「沸」って言うんだ。ついでに言うとね、波紋で細かい糸のような横筋が入ってるのを「金線」、太めの糸だなって思ったら「金筋」、水に流れる砂のようになってるのは「砂流し」、匂や沸が地鉄に溢れてるように見えるのが「湯走り」というんだ」
目がぐるぐる渦のように回っている剣奈である。匂と沸、金線ぐらいまでは分かった。後は藤倉が何を言ってるのか分からなくなった剣奈である。
「そ、そうなんだ。またお母さんに聞いとくね!」
逃げた!
「そうだね。話をもとに戻すとね、この西宮協立リハビリテーション病院は、元々は米国ボストン大に留学していた村山氏関係者が米国流の最新病院を建てたいと希望して建てられたんだ。その頃は朝日ホスピテルって言われたらしいね。全個室の豪華な病室で、最上階の見晴らしのいいレストランでは一流ホテルで技を磨いたシェフが料理を提供していたらしいよ」
「行きたい行きたい!」
食いしん坊の剣奈である。剣奈はワクワクしながら病院の階段を上った。
「あれ?」
しかし現在は七階にレストランはなかった。カフェになっていた。高台から大阪湾の見下ろせる見晴らしい眺めは当時のままである。
「ボクのステーキが……」
「はははは。またご馳走してあげるよ。今は断層を探そうか」
「はーい」
剣奈たちは窓から外を眺めた。彼女らがここを訪れた本来の目的は芦屋断層の断層面が見れないかと期待してのことである。しかし残念ながら断層面は見つからなかった。
「地面ずれてる場所、見つからないね。でも景色いいね。ちょっと高くて怖いけど」剣奈が呟いた。
「ガラスがあるから大丈夫だよ。いざとなったら私もいるしね」
藤倉が頼もし気な大人を演出した。そしてさりげなく剣奈の肩を抱く藤倉である。千剣破が見たらきっと、冷ややかで軽蔑に満ちた汚いものを見るような、そんな氷の目で恩師を見たことであろう。
剣奈は肩を抱かれていることには全く無頓着である。藤倉に幼児趣味がないことを祈ろう。