97 邪気の地球侵攻目撃さる 冴える藤倉の推論 大地に突き刺さる赤気(イメージあり)
藤倉、千剣破、剣奈は鶴甲大学文学部一階一三二の視聴覚教室に来ていた。
「さて久志本さん、もったいぶらずにそろそろ教えてもらっていいかな?何故君が重文・国宝級の短刀を持っているのかな?」
「はい。すぐにお教えします。ですがあと少しだけお待ち下さい。剣奈!幽世へ!」
「はい!」
「えっ?」
剣奈は一歩前に進み、北東南西の順に深く頭を下げた。最後に六甲山の方を向いた。
六甲山に向かってご挨拶にと軽くお辞儀した。続けて腰を折って深いお辞儀を二度繰り返した。お辞儀を終えると手を少しずらして二回柏手を打った。そして手を合わせ直して黙とうした。
剣奈は六甲山の山の神様に「これからお邪魔いたします。失礼いたします」と心で念じた。
そうして剣奈は瞳を開けて千剣破の手を握った。続いて藤倉の手も握って祝詞の奏上をはじめた。
藤倉は意表をつかれた。こんな幼い子が四方拝である。しかも付け焼き刃の演技ではない。
彼女の所作は美しく神秘的ですらあった。思わず見惚れていると、女の子にいきなり手を握られた。
一体何を?年甲斐もなくドキリと鼓動が高まった。その瞬間、彼女の祝詞が始まった。高く透き通る声だった。美しく聞き惚れる声だった。
掛けまくも
綾に畏き天土に
神鎮り坐す
最も尊き 大神達の大前に
慎み敬い 恐み恐み白さく
今し大前に参集侍れる
剣奈と来国光と千剣破と藤倉
幽世に送りたまへと
拝み奉るをば
平けく安けく
聞こしめし諾ひ給へと
白すことを聞こしめせと
恐み恐み白す
室内だというのに風が吹いた。剣奈、千剣破、藤倉の体が淡く光った。そして静かに風に溶けた。
次の瞬間、視聴覚教室には誰も残っていなかった。
藤倉は目を瞬かせた。何が起こっているのかさっぱりわからなかった。視聴覚教室にいたと言うのに、何故か六甲山の山腹にいた。森の中である。遠くに大阪湾が見えた。あるはずの街並みは見えなかった。ただ森と野原が広がるだけだった。剣奈は藤倉の手を離した。
「えっと、剣奈君、剣奈ちゃん?この子は一体?手品じゃないよね。こんな大規模なイリュージョン、大掛かりな仕掛けの準備なく出来るもんじゃないからね。あらかじめ視聴覚教室に仕掛けをしておくのはどう考えても不可能だ。そしてあの祝詞。発端文、感謝文、目的文、祈願文、結尾文で構成されていた。略式ではあるがきちんとしたものだった。久志本さん、説明をお願いできるのかな?」
「はい先生。突然異世界にお連れして申し訳ありません。とても信じられない話なので、まずは超常現象を体験していただくのが先かと。私がそうでした。とても信じられませんでした。けれどここに連れられてきて、剣奈と来くんの話を聞かされて、ようやく信じる気になったんです。未だ信じられないですけど」
千剣破は自嘲気味に笑った。藤倉は教え子のそんな様子を見て、どうやら悪ふざけじゃなさそうだと感じた。
「驚いたよ。確かにあの声がした時は隠しスピーカーとしか思わなかった。けれど異世界移転か。ここまでされたら信じるよ。催眠術による幻覚でないことを祈る」
「クスッ。私も催眠術じゃないかと今でも思ってます」
「おいおい。手をたいたら眠りから覚めるのかな?」
「そうだと本当に良かったのですが……では端的にお話しします。こちらの来国光さんは刀匠来国光さんによる本作です。神様のご神託により奉納刀として打たれました。地脈に根付く悪の幽玄体「邪気」を祓うためです。邪気は宇宙生命体で地球エネルギーを食糧としています。ここまではよろしいでしょうか?」
藤倉は眉を寄せ、額に右手を当てて考え込んでいた。この短刀が来国光の本歌であることは納得できる。奉納刀と言うのも理解可能である。しかしその後は荒唐無稽である。
久志本さんは読書が好きだった。ゲームやアニメの話をゼミ生らで楽しそうにしているのをなん度も目撃している。
女性によくある思い込みだろうか。いや、しかしこの移転は?幻覚にしては生々しすぎる。草木の匂いまである。額をつまむと痛みがある。五感は正常そうだ。藤倉は考えがまとまらないまま口を開いた。
「短刀の来国光の由来までは理解したよ。その後がね。悪いが何を言っているのかさっぱりわからない」
「そうでしょうね。来くん説明してもらってもいいかしら?」
『うむ。邪気は宙から降ってきた。藤原定家殿の『愚記』にも客星や赤気の記載がある。邪気は宙から大地に降り、地脈の力を喰らい、地震を起こす。山から火を吹かせ、大浪を起こし、雷をよぶ。それを防ぐのがワシの使命じゃよ』
藤倉は来国光の発言により学者モードのスイッチが入った。
「そういえば確かに『愚記』、『明月記』にそんな記載があったね。一二〇四年(元久元年)、四十過ぎの藤原定家が二月二十一日と二十三日に長引く赤気を見て「赤気が見られ、その中にさらに白い箇所が五個あり筋も見えて恐ろしい」だったかい?そして『日本書紀』には六二〇年(推古二十八年)十二月三十日に天に雉の尾のような赤気があったと記録されているね?またルイス・フロイスは一五八二年(天正十年)の『耶蘇会の日本年報』で、織田信長が赤気を気にせず出陣して周りが驚く様を書いていたか。その三か月後に信長は討たれるのだがね」
スラスラと藤倉の口から出てくる言葉に千剣破は尊敬の眼差しで恩師を見つめた。さすが先生だ。こんな荒唐無稽な話から核心的な真実を紡ぎ出すとは。
教え子が目を丸くしているのにも気づかず藤倉は話を続けた。
「『星解』はさらに生々しいね。一七六九年(明和六年)七月にオリオン座を横切る赤い筋が描かれている。また一七七〇年(明和七年)七月二十八日の絵では京都から見て若狭方面の山々に大量の赤気が突き刺ささる様が描かれていた。そういえば国立極地研究所の研究者が『星解』やフランスの天文学者・画家のエティエンヌ・レオポール・トルーヴェロの不思議な絵画から着想を得て『日本書紀』の赤気について見解を述べていたっけ。たしかあの絵画はÉtienne Léopold Trouvelot, Aurora Borealis, March 1st 1872 at 9.25pm……」
◆邪気の地球への侵略(『星解』より)
◆邪気の地球への侵略 Étienne Léopold Trouvelot, Aurora Borealisより
「なるほど。それらは「邪気」、つまり宇宙生命体が地球に侵略してきた瞬間を目撃したものだったものだったのか。宇宙生命体は活動エネルギーとしてマントルから熱を奪い、それを活力源として地震を発生させるか。確かに辻褄は合うね」
藤倉は来国光の話を元に頭の中の情報を次々と有機的につなぎ合わせ始めた。
千剣破は藤倉を頼った自分に対して心の中で両手でガッツポーズをしていた。もちろん顔ではお澄ましして上品に「ええ。わかってますよ」としたり顔でうなずいていたのだが……
藤倉はそこで突然訝しむような顔になった。そして心のなかで考えた。「いやしかしちょっと待て。この娘は、剣奈ちゃんは何者?はじめは剣人君と名乗っていた。でも久志本さんはこの娘を「剣奈」と呼んだ。そして剣奈ちゃんはその呼び名を普通に受け入れていた。いや、そんなことはどうでもいい。空間移転をあっさり行ってしまうこの能力。何なんだ。
いくら考えても理解の糸口すら思いつかない。そこで藤倉は率直に尋ねてみることにした。
「とても納得できないが、辻褄は合うようだね。ところでこの娘のことを聞かせてもらってもいいかな?最初は剣人くんと名乗っていたが、君は剣奈ちゃんと呼んでいるね?私には女の子に見えるのだが。そしてこの力。何者なんだい?」
「この娘のことも信じがたい話になるかと思います」
「いやもう十分に信じがたいことのオンパレードだよ。いまさら驚愕が増えたところで同じだよ」
「わかりました。それでは申します。この娘は男子として生を受けました。私が産みました。数日前に旅をしていた時、神様に導かれて幽世に招かれました。そこで来くんの使命を手伝うために来くんと絆を結びました。邪気を浄化させる儀式を行うためです。ところが来くんや神様のご加護を受け入れるためには未通の女性である必要があるとのことで、神様が剣人の身体を女性に作り変えました。剣人は地球を救うために女性として生きていく決心をしました。そこで我々は女性に変わった「剣人」を「剣奈」と呼ぶことにしました。ここまではよろしいでしょうか?」
いまさら驚愕すべき事実が積み重なったところでと藤倉は思っていた。しかしである。藤倉はあっさり考えを変えた。
「少し前のオレを笑うか。なんてかわいいことを考えていたかと。いやいやいや。全然同じじゃなかったよ」。
藤倉は自嘲の微笑みをたたえながら口を開いた。
「よろしくないし、全然信じられない。確かに巫女が未婚未通の女性に限られると言うのは辻褄が合う。例えば「神」と言う超常生命体が古来から存在するとの仮定を置こう。すると我が国の伝統ではその力を受け入れる巫女は確かに君の言う通りだ。今の世でも神様は処女厨……、いや、失言だ。古式ゆかしき神様と言う名の超常生命体が存在するとする。その超常生命体がもともとの女性を選ばなかった。わざわざ男性の剣人くんを選んだ。しかも男の体を女性に作り変えてまで選んだ。そんな手間のかかることをしたのは、それだけ剣奈ちゃんの適性と才能を見込こんだということなのか。我々三人をあっさり次元移動させた剣奈ちゃんの力は確かに凄まじい」
常識的、感情的には全く受け入れられない話であった。しかし藤倉はこれまでの知識をもとに彼女らの話を当てはめてみた。すると驚くほど整合性がとれた。
藤倉は研究者である。常識に囚われて真実を見なかった人々の愚かな歴史をうんざりするほど学んだ。
藤倉は思った。常識と感情のわだかまりを一旦棚上げしようと。研究者の冷徹さを持って、教え子らの話を最後まで聞いてみようと。
藤倉はそう決心して二人と一振りを見つめた。