29. 私は猪呂音
「おおきくなったらおばあちゃんみたいにたくさんだんじょんをこうりゃくするの!」
その純粋な想いが曇り始めたのはいつからだっただろうか。
ヴァルキュリアとして生まれ、期待され、その期待に応えようと真っすぐに育っているように見えた音だが、その内面は決して見た目通りでは無かった。
彼女の心が軋んだ理由の一つが家族。
「いいかい、音。ヴァルキュリアとして強くなって活躍するんだよ」
父親はいつも優しく、音をたっぷりと甘やかして育ててくれた。
休日はいつも遊んでくれて、柔らかな笑顔を絶やさず、頭を撫でてくれるのが気持ち良かった。
ヴァルキュリアである自分に誇りを持て。
ヴァルキュリアとして強くなれ。
ヴァルキュリアとして活躍しろ。
少しばかり押し付け気味な教育をしてくることもあったが、音はそれも嫌では無かった。
むしろ優しい父親の期待に答えたいと、良い方向に作用していた。
しかしある日のこと。
「いいかい、音。強い職業に就いた人は社会の為にダンジョンに入って貢献しなければならないんだよ」
いつものようにこう言われた時に、音は純粋な気持ちで聞き返した。
聞き返してしまった。
「じゃあパパもすごいこうけんしたんだね!」
音の父親も、音程では無いがレア職業だった。
父親が言うような『強い職業』だった。
それならば父親もきっとダンジョンで社会に貢献したに違いない。
武勇伝があるに違いない。
大好きな父親の格好良い話が聞きたい。
そう思っただけだったのに。
「俺のことは良いだろ!」
鬼のような形相になり激怒してしまったのだ。
あまりの出来事に音が号泣すると父親はすぐに冷静さを取り戻して謝ったが、音の脳裏にはこの時の父親の顔が焼き付いて消えてくれない。
この先どれだけ優しくしてくれても、また怒られるのではないかと怖くなってしまう。
何故父親が激怒したのか。
物心がつく頃に、その理由が分かった。
父親は確かにレア職業に就いていた。
しかし魔物が怖くてダンジョンで戦えず、早々にドロップアウトした名ばかりレア職業だったのだ。
レア職業に就いているくせに何も出来なかった。
自己嫌悪や劣等感にずっと苛まれてきた。
せめて子供は自分と同じような目に遭わないように育てようと、幼い頃からヴァルキュリアとしての考え方を教えようとした。レア職業についているのだから頑張らなければならないと、自分のことを棚にあげて伝え続けた。
だから音に聞き返された時に『娘にはそう言うがお前はどうなんだ』と責められたような気がしてしまい、反射的にカッとなって怒ってしまったのだった。
そこまでの詳しい心情まではもちろん音には分からなかった。
だが父親が何も為せなかったことが鬼を住まわせた原因ということだけは何となく察していた。
『私は父親のようにならず、立派なヴァルキュリアにならなきゃ』
無意識のうちにそう思うようになっていた。
一方で母親は父親とは逆に娘に対して関心が薄かった。
最低限の育児はやってくれるものの、娘に対して愛情があるようには感じられない。
それだけならまだマシだった。
音も幼い頃はあまり気にせずに慕っていたし、それなりの反応を返してくれていたから。
だがある時、音は見てしまったのだ。
「わたし、う゛ぁるきゅりあだからだんじょんにはいってがんばる!」
「すごーい!」
「ぼくもやりたーい!」
「いいなー」
保育園で親が迎えに来るのを待っている間の何気ない会話。
それを音の母親が聞いていた。
そして音は気付いてしまった。
母親が苦々しい表情になっていることに。
それから母親の様子を観察すると、音がヴァルキュリアの話をするといつも機嫌を悪そうにすることに気が付いた。
ゆえにいつしか音は、母親の前で職業の話をするのを止めた。
原因は単純だ。
母親もまたヴァルキュリアだった。
そして父親と同様に戦えずにドロップアウトし、レア職業をエサに男を探し遊び歩いていた。
同じヴァルキュリアの娘に、ヴァルキュリアとして頑張るなどと言われたら責められているような気がして良い気はしないだろう。激怒しないだけ父親よりマシかもしれないが、似たり寄ったりか。
そんなこんなで、音は自分がヴァルキュリアであることを進んで口にしなくなった。
だがそんな事情を知らない周囲は彼女の意思などお構いなしに、彼女のことを将来が約束されたヴァルキュリアとして扱ってくる。
「ねぇねぇ、猪呂さんってヴァルキュリアなんでしょ。いいなぁ、今のうちにサイン頂戴!」
「私も将来ダンジョンに入ろうと思ってるの。良ければいつか一緒に探索してくれないかな」
「なぁなぁ猪呂。俺と付き合わね? 俺も中々良い職業なんだぜ」
純粋に憧れてくれる人。
将来を見込んで友誼を結ぼうとしてくる人。
レア職業を狙って男女関係を求めてくる人。
全てが好意的だったら良かったのだろうか。
それとも増長して悪い方向に転んでしまったのだろうか。
起こらなかった『もし』に意味はない。
彼女は知ってしまった。
羨ましがられ、やっかまれるということを。
「そういえば猪呂さんとこの娘さん。そろそろ十歳なんですってね」
それは学校から帰る時のこと。
登校中にいつも挨拶をしてくれる優しい近城の家に近づいた時、彼女が世間話をしていることに気が付いた。しかもその話の中に自分の名前が含まれているではないか。気になった音はこっそりと近城の話を盗み聞きした。
「あらもうそんな歳なのね。時間が経つのは早いわぁ」
「この調子だと気付いたら高校生になってダンジョンに入ってそうよね」
「ダンジョンねぇ。ヴァルキュリアなら余裕なんでしょ。羨ましいわ」
「ホントそう。でも分からないわよ。あの子の母親がアレだから」
「そうね。あの子も結局逃げて男漁りに精を出すのかもね」
「それを言うなら精を受ける、でしょ。出すのは男の方よ」
「あははは。何それくっだらなーい」
「あ~あ、私もヴァルキュリアだったらもっと良い旦那を見つけられたのに」
「あなたのとこはまだ良い方じゃない。うちの旦那なんか……」
そこから先の話はもう聞けなかった。
優しい近所のおばさんが、まさか自分のことをヴァルキュリアという職業を使って男を誘惑する人間になると思っていただなんて。
『ダンジョンに入って頑張る』と言ったら『応援してるわ』と優しい笑みで言ってくれたおばさんが、本心では『どうせすぐに諦めて男を求めるに違いない』と思っていただなんて。
あまりのショックで、どうやって家に帰ったかも覚えていない。
この日から、音は自分がどう思われているかに敏感になった。
どれだけ良いことを言ってくれても、内心ではやっかまれているのではないか。
そう考えるようになってしまったから。
そして意識してしまうと、これまで聞こえなかった話が聞こえて来てしまう。
「ねぇねぇ、二組の猪呂って知ってる?」
「ああ、ヴァルキュリアの子でしょ?」
「いいよねぇ。あんなレア職業だったら男を選び放題じゃん」
「あたしもレア職業で生まれたかったー」
「俺は絶対ダンジョンで活躍してみせる!」
「お前じゃ無理だって」
「なんでだよ。雑魚職じゃねーし、良いとこいけるはずだぜ」
「だってお前ビビリじゃん」
「ビビリじゃねーし!」
「つーかなんで頑張ろうとしてんだ?」
「そりゃあ活躍すれば良い女が寄ってくるだろ」
「女かー」
「そうそう。ほら、猪呂とか狙いたいだろ」
「バーカ、相手の方が格上だって。不釣り合いにも程があんだろ」
「分からねーぞ。あいつだってビビってダンジョン入らねーかもしれねーだろ。俺が活躍すればあいつに選ばれる可能性だってあるだろ」
「ないない。つーか、ビビるのはお前だっつーの」
「なにおー!」
「何がヴァルキュリアよ。あんなの男を漁るだけのクズじゃない」
「うわぁ。辛辣ぅ」
「ウラったら、好きな男子があいつに色目使ってるのが気に入らないのよ」
「うっさい。ああもう、ほんと腹立つ。楽して男を選び放題とかズル過ぎない?」
「それなー」
男、男、男。
ヴァルキュリアは男を漁るだけの浅ましい職業だ。
どうせお前もそうなるに違いない。
街を歩くと誰もが自分を見て、そう心の中で蔑んでいるような気すらしてくる。
人当たりの良い友達も、本当は自分のことが嫌いなのではと思ってしまう。
お前は汚れたヴァルキュリアなのだと誰からも指をさされ、心に暗い鎖が絡まって行く。
『違う違う違う違う!私はそんな浅ましい存在じゃない!男の子になんて興味ない!おばあちゃんみたいに強くて格好良いヴァルキュリアになるんだもん!』
病みそうになる心を支えたのは、憧れの祖母の記憶。
ヴァルキュリアとして活躍し、当時の最前線に挑み続けた高潔な人物。
自分は他人が言うような職業の力を借りて男漁りをするような低俗な人間ではなく、祖母のような強くて気高くて立派で高潔な人間になるのだ。
そういうヴァルキュリアになる。
だがそれはある意味、彼女自身が高潔なヴァルキュリアにならなければならないと自らの心を別の鎖で縛っているにすぎない。
男漁りをするヴァルキュリア。
勇敢に戦うヴァウキュリア。
父親が望む姿のヴァルキュリア。
母親のようにならないヴァルキュリア。
近所の娘さんが想像するヴァルキュリア。
学校の友人が決めつけるヴァルキュリア。
気に入らないヴァルキュリア。
将来が期待されるヴァルキュリア。
彼女の人生は、誰からも、そして自分自身からもヴァルキュリアとして扱い続けられた。
ヴァルキュリアだからこうなるはずだ。
ヴァルキュリアだからこうならなければならない。
彼女の心はヴァルキュリアという様々な鎖に雁字搦めにされていた。
お前は低俗なヴァルキュリアだ。
いや、高潔なヴァルキュリアになるんだ。
その反抗心から、ヴァルキュリアを欲して近寄ってくる男を拒絶した。
ハーレムだなんて、心を蔑ろにして職業のみしか見ていないようにしか感じられずあり得ない。
男だけではない。
同性に対しても彼女は壁を作った。
ヴァルキュリアである自分を蔑んで来そうな相手とは無意識で距離を取りたがった。
だが親しい人でも本心では……と考えてしまうと、信じられる人など居なかった。
それでも強引に関わろうとしてくるユウ達のような奇特な相手もいるけれど、彼女はそんな相手すらも心から信じられずいつも独りぼっちだった。
高潔なヴァルキュリアになり、自分が汚れていないことを証明する。
そんな幻想こそが彼女の心の唯一の支えだった。
だが彼女は負けた。
レッサーデーモンに手も足も出ず、恐怖に打ち震え、あろうことか自分を気にかけてくれる人を殺しかけた。
弱い。
実力が、ではなく、心が弱い。
実力を大きく上回る相手であり、本当の死が待っている場面なのだから怯えるのは当然かもしれない。
だが、果たして自分はこの先、魔物相手に恐れず立ち向かえるのだろうか。格下の弱い相手を倒すことしか出来ず前に進めないのであれば、すぐに行き詰る。その先に待っているのは、ドロップアウトして男漁りの日々。
生まれ育った街の人々から蔑まれ、絶対にそうはなりたくないという姿になってしまった。
自分が低俗な存在にならざるを得ないと分からされてしまった。
心が完全に折られてしまい、戦うどころか立ち上がる意思すら持てない。
だが。
『僕は猪呂さんがヴァルキュリアだから好きになったわけじゃないよ』
その男は、彼女をヴァルキュリアとして見ていなかった。
猪呂音を猪呂音として扱ってくれていた。
職業とか、高潔とか、低俗とか、そんなことは関係なく、彼女のことが好きだと言ってくれた。
美しいと、優しいと、彼女そのものを好いてくれた。
ヴァルキュリアだからこうなるに違いない。
ヴァルキュリアだからこうあるべきだ。
ヴァルキュリアの『在り方』に心が雁字搦めになっていた音が本当に欲しかった言葉だった。
自分自身を見て欲しい。
ヴァルキュリアだからどうとかではなく、猪呂音はこうだと言ってもらいたかった。
自分がそれを望んでいたことに気付かされた。
ダイヤから与えられた温もりが心の奥底まで染み渡る。
ピシッ。
心の鎖にヒビが入る。
自分はヴァルキュリアではなく、猪呂音であることを思い出したから。
まだ恐怖は消えてはくれない。
死にたくないと強く思う。
でも、不思議と心は軽くなっていた。
ヴァルキュリアだからこうあるべきだという指針が壊されようとしているのに、自分の心がどうしようもなく弱いと自覚させられたのに。
ダイヤのためなら戦える。
そう感じたのだ。
ーーーーーーーー
ひとしきり泣いた音は、目を閉じて空を見上げた。
その姿勢のまま風を感じ、軽くなった心に澄んだ空気を送り込む。
「ふぅ」
空に向けて小さく息を吐いた音はダイヤの方を向く。
目元は真っ赤だったが、表情には力強さが戻っていた。
そんな音に向けてダイヤが優しく語り掛ける。
「猪呂さん、一つだけ訂正するね」
「訂正?」
「猪呂さんは自分のことを弱いって言ってたけど、僕は違うと思う」
「え?」
「猪呂さんは強い人だよ。理由は無いけど僕が保証する」
「…………」
ここまで完膚なきまでの打ちのめされていたのに何を言っているのか。
そう反射的に感じてしまわなかったことに音は驚いた。
それどころかダイヤの言葉を本気で信じそうになっている。
「(ああ、私はもう……)」
それが何を意味するのか。
分かってしまった。
「ありがとう、ダイヤ」
「どういたしまして、音」
その言葉と共に、ダイヤは再びランスを差し出した。
音はそれにゆっくりと手を伸ばす。
「ここからが本当の勝負よ!」