28. だから僕は君が好きだ
「…………」
ひとしきり泣きじゃくった音はダイヤの手を優しく頬から外すと、真っ赤になって顔を逸らした。
「(今、顔を見たら絶対に可愛いだろうな)」
なんて鬼畜なことを考えるダイヤだが、そういう空気はちゃんと読めるためぐっと堪えた。
「…………」
あまりにも恥ずかしかったのだろう。
泣き終えてから何一つ口にしようとしない。
だがそのまま何もしないという訳ではなく、音はそっと立ち上がりポケットからある物を取り出した。
「それって中級ポーション!?」
試験管のような物に入った濃い緑色の液体。
傷を癒し体力を回復させる魔法の薬、ポーション。
かすり傷などの小さな怪我と僅かな体力を回復させる下級ポーション。
大きめの裂傷など痛いけれど我慢すれば動きに支障がない程度の怪我と、そこそこの体力を回復させる中級ポーション。
骨折などの動きを阻害する怪我とかなりの体力を回復させる上級ポーション。
下級ポーションであれば数千円程度で手に入るのだが、中級ポーションは数十万、上級ポーションともなると数百万円はくだらない。
初心者は下級ポーションを複数所持するのが定番であり、中級ポーションのような貴重なものを持ち歩く人はまずいない。イベントダンジョンに突入したのは突発的なことであり、事前に準備できなかったことを考えると、音は何らかの理由で常に携帯していたのだろう。
「待ってそれをどうするつもりなの!?そんな貴重なの僕には要らないよ!」
んなわけない。
上半身を大火傷し、全身の至る所が爪で裂かれ、落ちた爪を拾い握った右掌はズタズタで今もポタポタと血が流れ落ちている。深く斬られた右足ふくらはぎの傷も開き、このままでは失血死してもおかしくない。
しかし悲しいかな。
貧乏で節約生活を続けていたこともあり、高価な物を反射的に要らないと断ってしまった。
「…………」
音は無言でダイヤの身体に手を伸ばし、肩をつんと指でつついた。
「っっっっっっっっ!」
それだけで痛みに顔を顰めるような有様で、回復が不要な訳が無い。
音は問答無用で中級ポーションをダイヤに振りかけた。
するとダイヤの傷がみるみるうちに治っていくではないか。
「あはは、ありがとう」
火傷や右ふくらはぎなどの重傷の部分は流石に完治はしないが、肌が真っ赤に熟すなんてことはなくなり、血も止まっている。激しい戦いにより失った体力も回復し、空元気ではない本当の元気が湧いてくるのが実感出来た。
「絶対にいつかお金を払うからね」
「…………」
ふるふると音は力なくそれを断ったが、どんなことをしてでも押し付けようとダイヤは思っていた。
「中級ポーションのおかげで力が湧いてきたよ。じゃあ今度こそこれをどうぞ」
ダイヤの怪我についてはこれ以上出来ることは無いだろう。
音が立ち上がったこともあり、話を戻して今度こそランスを渡そうと手に取り差し出した。
「…………」
しかし音は今度もまたふるふると顔を弱く振り、拒絶の意思を示したでは無いか。
「貰ってよ。猪呂さんの武器壊れちゃったでしょ。僕はランスは使えないからさ」
「…………」
それでもやはり音は受け取ろうとしない。
なぜこの状況でそこまで拒絶するのか。
その理由を音はか弱い声で語り出す。
「私は……弱いから……あんたの方が上手く使えるよ」
「え?」
槍のスキルレベルが六もある人が何を言っているんだ。
ド素人のダイヤが使うよりも遥かに使いこなせるはずだ。
しかし今の音は、そんなスキルなど意味をなさなくなるくらい心折れていた。
武器があろうと、スキルがあろうと戦えない。
自分の心の弱さを自覚し、あろうことかそのせいでダイヤを殺しかけたことが致命的だった。
次もまた自分のせいでダイヤが傷つき、今度こそ死んでしまうかもしれない。
「私はどこかで隠れてる。もうあんたの邪魔しないから」
「何を言ってるの?」
「足手纏いにしかならないから……ごめんなさい」
だからもうダイヤの傍にはいられない。
お荷物が居ない方が、ダイヤは伸び伸びと戦える。
音はフラフラと精気なくどこかへ歩き出そうとする。
「待ってよ」
だがもちろんそれをダイヤが何もせず見送るわけがない。
「僕には猪呂さんが必要なんだ」
「…………」
「だから一緒に行こう」
「…………」
「猪呂さんが居なきゃすぐに負けちゃうよ」
「そんなことない!」
それまで死んだようだった音が、ダイヤの言葉に激昂した。
「私はあんたみたいに強くなんかない!ヴァルキュリアだなんて言っても、本当は何も出来ない単なる小娘よ!宝の持ち腐れよ!格上相手の魔物にビビって腰抜かしてあっさり死んじゃうような情けない女なのよ!私は弱い!弱くて弱くて弱くて、名ばかりのレア職業に就いていることしか価値のない下らない女!」
「…………」
半狂乱に陥ったかのように、頭を抱え、髪を大きく揺らしながら、自分を卑下する言葉を叫ぶ。
偽の知り合いに責められ、実力の無さを突き付けられ、恐怖に怯えるしか出来ない弱さを自覚して心が壊れかけていた。
溜まりに溜まった悲しみと恐怖を、自虐という形でぶちまける。
「弱い、弱い、弱い弱い弱い弱い!戦えず、仲間を死なせるヴァルキュリアだなんて聞いたことも無いわ!私みたいな弱虫がダンジョンに挑もうだなんて考えることが烏滸がましかった!弱者は弱者なりにウジウジしながら男を漁って惨めに低俗に生きていれば良かったのよ!皆の言う通りだった!」
やがて音は叫び疲れたのか、両手を力無くだらんとさげ、肩を落として項垂れる。
そして自嘲するかのように、また力無くダイヤに告げる。
「幻滅したでしょ。私がこんなに弱い女だったなんて知って、嫌いになったでしょ」
「そんなことないよ」
だがダイヤはその言葉に即答した。
音のことを嫌ってなどいないと。
「……ああ、そうよね。あんたも私の職業が欲しいからそう言ってるんでしょ。良いわよ。どうせ死ぬんだもの。ここで抱いてく?何でもやってあげるわよ」
『職業』はそもそも生まれた時に自動的に就かれ、変更するにはダンジョンに入ってレベルを上げて転職するしかない。
そして親の『職業』は子供に遺伝する。
たとえ同じ『職業』にならずとも、レア度の高さは高確率で遺伝する。
『レア度の低い職業』であっても、『レア度の高い職業』の相手と子を為せば、それなりに『レア度が高い職業』に就いた子供が生まれる。それゆえ、『レア度が高い職業』は結婚相手として人気であり、強い子供を産むためだけに政略結婚を試みる人すらいるくらいだ。
たとえ音自身が弱く、ヴァルキュリアを使いこなせないとしても、その体は希少価値が高い。男が群がってくることに変わりはないだろう。
ダイヤもまた、ヴァルキュリアの血筋が目当てで近づいてきた。
そう音は考えていた。
「ああでもここで死ぬんだったら意味無いか。ふふ、あんたが女で私が男だったら子供を残せたのにね。残念」
ここで死に、子を残すことの出来ないヴァルキュリアに価値など無い。
そのことに気付き、自分の存在価値が更に下がったと自重が止まらない。
だがまさにその存在価値こそがポイントだった。
決して彼女の存在価値は下がってなどいない。
それを目の前の男が教えてくれた。
「僕は猪呂さんがヴァルキュリアだから好きになったわけじゃないよ」
その言葉を、音は全く理解できなかった。
脳が素直に受け付けず、何か聞き間違えをしているのではと思い込む。
「もう一度言うよ。僕は猪呂さんがヴァルキュリアだから好きになったわけじゃないよ」
だが丁寧に繰り返すことで、ダイヤがその思い込みを阻止させる。
「嘘よ……」
「本当だよ」
「嘘よ!」
「本当だよ」
「じゃあどうしてあんたはわたしのことを!」
好きだなんて言ったのか。
他の有象無象と同じく、ヴァルキュリアだからこそ近づいて来たのではないのか。
そんなわけがないだろう。
ダイヤがそんな肩書なんかで人を好きになることなんてありえない。
「だって美人だから」
「は?」
美人だから好きになった。
なんともシンプルで分かりやすい理由ではなかろうか。
「それに可愛いし」
「え、あの、え?」
これまで音は容姿について褒められたことが何度もあった。
しかしそれはヴァルキュリアとしての音が欲しいがためのお世辞の類のものだと思っていた。
周囲の人間が本当に彼女を美しいと思っていただなんて想像すらしていなかった。
たとえ本当に思っていたとしても、それはヴァルキュリアとしての肩書により幻想を抱いているだけだと思っていた。
だがダイヤは違った。
ヴァルキュリアだなんてどうでもよい。
その上で美しいから好きになったのだと。
「な、な、な、何言ってるのよ!」
死にかけていたはずの心に羞恥という名の熱が籠る。
ドストレートに美人だの可愛いだの言われて、猛烈に照れ臭い。
彼女の落ち込んだ心を立ち直らせるにはここしかない。
ダイヤは一気にギアをあげて攻め込んだ。
「本当だよ。それに優しそうな人だなって思ったのが好きになったきっかけだったかな」
「はいぃ!?」
「僕、なんとなくそういうのが分かるんだ」
初対面の相手がどのような本質を持つ人間なのか。
それが分かる嗅覚をダイヤは持っていた。
これはスキルではなく、ダイヤが持つ天性の力。
音がとても優しい人間であることを、ダイヤの直感が教えてくれていた。
そして自分のハーレムメンバーとしても相応しい相手だとも教えてくれていたのだが、ややこしくなるため今はそれは言わない。
「て、てて、適当なことを言って!」
「本当なんだけどな。それに今は僕のその感覚が正しかったって知ってるし」
「え?」
予想外の流れに焦る音には気付かない。
ダイヤの顔が今までになくほんのりと赤く色づいていることに。
本気で自分の想いを伝えようとしていることに。
「そんなになってしまうくらい怖いのに、僕を心配してこのダンジョンに来てくれた。やっぱり猪呂さんはとても優しい人だ」
怖くて弱くて情けないだけの人間ならば、高確率で死ぬと分かっているこのダンジョンに入ることなど出来ないはずだ。それなのに彼女は入った。ダイヤを心配して入ってきた。嫌悪しているはずの相手を助けるために踏み出した。
追って来てくれた時、ダイヤが本当はどれほど嬉しかったか。
好きな気持ちがどれほど強まったか。
「だから僕は君が好きだ」
ダイヤは本気で音を好きになっていた。
見た目や印象だけでなく、その中身を知り、好きで好きで堪らなくなっていた。
その気持ちを、想いを、ストレートに表現する。
「あ……ああ……」
またしても音の瞳から涙が零れ落ちた。
だが今度は悲しみによるものではない。
「わた……私……ヴァル……ヴァ……じゃな……うう……」
想いが高まりすぎて言葉にならない。
ヴァルキュリアとしての猪呂 音ではなく、猪呂 音そのものが好き。
『レア職業だなんて羨ましいわ』
『男選び放題なんでしょ。ずるーい』
『ちぇっ、生まれた時から人生勝組じゃん』
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音の心を縛る見えない鎖が、音を立てて壊れて行く。
「わたし……わたしを……」
猪呂 音を見てくれる。
猪呂 音を好いてくれる。
たったそれだけのこと。
それがどれだけ嬉しいか。
「好きだよ」
最後に優しく告げられたその一言が、今度こそ音の心に優しいトドメをさすのであった。
「うわああああああああん!」