24. ご近所さんは悪魔さん
「完・全・復・活!」
洗濯乾燥が終わった服を身に纏い、握った両拳を高く天井に向けて元気よく宣言するダイヤ。
シャワーを浴びてさっぱりして、好きな人の手料理という最高のご馳走を口にして休憩したのだから回復しないわけがない。
「とか言って本当はまだ痛いでしょ」
おしおきマッドフロッグの衝撃波により、トラックに撥ねられたのではと思えるくらいに吹き飛んだのだ。少し休憩した程度で全快だなんて音は信じられなかった。
「どうなんだろう。ダメージ残ってるのかもしれないけど、今のところは本当に快調なんだ」
「……嘘を言っているようには見えないわね」
「流石にこれからヤバいダンジョンを探索するって言うのに、見栄で嘘なんか言わないよ」
ほんの僅かな体の違和感が不調につながり致命的な結果をもたらすなんてことになったら目も当てられない。それゆえダイヤはしっかりと体調を確認した。
「それより心配なのは猪呂さんだよ。ここで待機していたら?」
ダンジョンに入った直後のこと。
見知った街の中で音は何かに怯えるかのように恐怖していた。
今は冷静になっているが、外に出たらまた再発するかもしれない。
そうなってしまってはまともに探索することなどままならず、足手纏いにしかならないだろう。
「馬鹿にしないで。と言いたいところだけど、正直不安ね。でもここで一人で待つのは嫌。あんたを一人になんてしたらどんな無茶するか分かったものではないわ」
「僕は無茶なんてしないよー」
「はぁ……」
白々しい言葉に溜息を吐く音の姿を見ながらダイヤは考える。
「(ここもいつまでも安全とは限らないし、待機してもらうより目の届く範囲にいてもらった方が良いか)」
今は安全なこの家の中が、いつ危険地帯に変貌するか分かったものではない。
そんな場所に音を置いておくくらいなら、足手纏いになる可能性があったとしても共に行動しなければ心配だ。どう言えば待機してもらえるか考えようとしていたが、方針を変えて彼女が言う通りに共に行動することにした。
「それじゃあ行くよ」
「ええ」
家を出て、再び外に出る。
「太陽の位置が変わってない」
「ずっと朝か夕方、ということね」
この街では時間の進みが無いようだ。
「猪呂さん、何か心当たりある?」
「そう言われても……」
このダンジョンが指輪に籠められた音の記憶を元に作られているとするならば、そして朝か夕方という時間帯で固定されているのならばそこに何か意味があるはずだ。例えば何か印象的な体験をしたことがある、など。だがそのことについて質問された音の答えははっきりしない。
「そもそもここって、いつの頃なのかしら」
「確かにそれは分からないね。その指輪はいつから持ってるの?」
「幼い時におばあ……祖母がくれたのよ」
「ならなおさら分からないね」
事故に遭った、などのように、これまでの人生であまりにも突出して印象的な出来事があれば、いつの頃だなんて考えなくとも良いが、敢えてそれを確認すると言うことは明確な心当たりが無さそうだ。
「とりあえず、どっちに行こうか」
「……朝にしろ夕方にしろ登下校の時間帯のはず。ならひとまず中学に行きましょうか」
「わーい、猪呂さんの出身中学拝見だー!」
「何が嬉しいのよ」
「そりゃあ先生から猪呂さんの恥ずかしい過去を聞き出すとか」
「ふん!」
「ぎゃあ!ダメージ負った!酷い!」
今のところは恐怖で動けないということは無さそうだ。
ダイヤがそれを確認するために敢えてふざけたことを音は察しており、ご期待に沿えるよういつも通りの反応をしてあげたのだった。
「ほら行くわよ!」
「ぐすん」
先導する音と、頭をさすりながらそれについて行くダイヤ。
警戒しながらなので歩みはとてもゆっくりだ。
「まだ何も出て来ないね」
「それが逆に不気味ね」
「うん」
ほんのわずかな音も気配も見逃さない。
集中力を高めて静かに静かに歩く。
「…………」
「…………」
自然と二人は無言になり、辺りが静かすぎることもあってか集中力が極限に高まり、今なら相手の微かな吐息すら聞こえてきそうだ。
このまま何も起こらないのだろうか。
いや絶対に何か起こるはずだ。
何も起こらないからこそ逆に不安は募り、心臓がバクバクと高鳴って行く。
せめて鳥の音でも聞こえたらと音の弱気な心が文句を言おうとしていたその時。
ガチャ。
「!?」
「!?」
突然近くでドアが開いた音がして、二人は勢い良くそちらを向いた。
音の出どころはすぐ隣の一軒家の玄関。
そこが開いて中から何かが出て来ようとしている。
「え?」
「え?」
一体どんな魔物が出てくるのだろうか。
警戒に警戒を重ねていたからこそ、予想外のことに二人は間の抜けた声が出てしまった。
「あら音ちゃんじゃない。こっちに戻ってきたの?」
玄関から出てきたのはどこからどう見ても普通のおばちゃん。
しかも音を知っているかのようにフレンドリーに話しかけてきた。
「近城さん……」
ポツりと音が彼女の苗字を漏らした。
どうやら顔見知りのご近所さんのようだ。
「確かダンジョン・ハイスクールに通っているのよね。元気してた?」
「…………」
「…………」
その姿は確かに知り合いの姿そのものだ。
だがここはダンジョンの中。
他の家には人の気配が全くないのに、この家からだけ人が出てくるだなんて怪しさ満点だ。
二人は最大限の警戒をして近城の様子を伺う。
「そんな怖い顔してどうしたのよ。おばさんの顔を忘れちゃった?」
だがあくまでも近城は自然体を崩さない。
それがまた不気味でならない。
「本当にどうしちゃったのよ」
そんな音の様子を、近城は頬に手を当てて不思議そうに見つめていた。
ここまでは普通だった。
ご近所さんが久しぶりに再会した知り合いの娘さんを見つけて声をかけただけのこと。
外の世界でも同様の会話がなされるかもしれない。
しかし。
「やっぱり恵まれた子は私みたいな一般人の相手なんかしたくないのかしら」
「え?」
「…………」
驚いたのはダイヤ。音は無言で顔を青褪めている。このダンジョンに入った時以上に酷い有様だった。
「ヴァルキュリアだなんて羨ましいわ。人生成功したようなものじゃない」
「本当はこれまで私みたいな雑魚職のおばさんに話しかけられて嫌だったのでしょ?」
「今の姿が音ちゃんの本性だったのね。知ってたわ」
近城は流暢に次々と音にやっかみをぶつけてくる。
「あ……あ……」
それは最早精神的な攻撃と言っても差し支えない程で、音は両腕で自らの身体を抱き、今にも崩れ落ちそうな程に震えている。
「その男の子は彼氏かしら。さっそく男を捕まえるだなんて、血は争えないわね」
「違う!そんなんじゃない!」
ここに来てようやく音が彼女の言葉を強く否定した。
しかしその程度では近城は止まらない。
「違わないじゃない。あなた昔っから男に言い寄られて嬉しそうにしてたでしょ。良い男を選び放題だなんてホント羨ましいわ。あたしなんか選択肢が無くてあんなしょうもない男と結婚するしか無かったのに」
「違う!違う!違う」
大きく首を横に振り激しく拒絶する音。
近城はそんな彼女を冷めた目で見つめながら攻撃を続ける。
「ダンジョンで活躍するんだー、なんて言っておきながらやっぱり男が好きなんじゃない。そうよね、女なんてしょせん男の」
「黙れ」
それまでどれだけ音が否定しても止まらなかった近城の言葉がピタリと止まった。
低く、低く、怒気を孕んだたった一言が、近城から会話の主導権を奪い取る。
「お前は敵だ」
相手が人の形をしている。
ただそれだけの敵だ。
たとえ戦いとは無縁そうな見た目のおばさんであろうが、ダイヤは相手を敵と認めたのならば容赦はしない。
「はっ!」
先制攻撃とばかりに近城の懐に潜り込み、腹に一撃を与えんとする。
「くっ!」
呻いたのはダイヤの方だった。
攻撃が当たる直前、不可視の何かに当たってしまい防がれてしまったのだ。
仕方なくダイヤはバックステップして一旦距離を置いた。
「あらまぁ、最近の子は野蛮ねぇ」
近城は自分が攻撃されたことなど大したことでもないかの様子で、相変わらず自然体を崩さない。
それこそが、彼女が異常な存在である証拠であろう。
「猪呂さん!アレは敵だよ!動ける!?」
今は落ち着くのを待ってあげたいところだけれど、言葉ではなく物理的に襲われたら戦うか逃げるかしなければならない。申し訳ない気持ちでいっぱいだが、ここは強引にでも叱咤して動いてもらわなければ危険だ。
「…………え…………ええ。だいじょう……ぶ」
「ならおっけー!」
全く大丈夫そうではないが、返事が出来るならばマシだろう。
「仲良くしちゃって。ほんと羨ましいわ」
「黙れ!」
「私だって強い職業だったら良い男を見つけて幸せに」
「黙れって言ってるだろ!」
効果が無くとも再度殴りつけてやろうとダイヤが構えたその時。
「う゛らやまし゛い゛わ゛ぁ゛」
ゾクリ、とダイヤ達は鳥肌が立った。
近城の言葉が奇妙なダミ声になったからではなく、彼女が禍々しい雰囲気を放ち始めたからだ。
「わだじぼ良いお゛どごがぼじがっ……」
不快な発音と共に彼女の全身が歪み、全く別の存在へと変貌しようとしている。
大きく肉付いた全身は獣のように筋肉質であり、臀部からは細く短い尻尾が生え、その見た目はまるで人間と同じ大きさの猿なのだが、大きく二つの点で猿には見えなかった。
一つは全身の色合いだ。体毛が猿より薄くて素肌が見えてしまっている部分が多く、その色合いは黒と灰が混じったもの。猿らしい茶色ベースはもちろんのこと、明るい色合いが全くなく、ダークな雰囲気を漂わせている。
そしてもう一つが、五十センチメートル程はありそうな長く鋭い爪。
これらの特徴を持つ魔物を、ダイヤも音も知っていた。
「レッサーデーモン」
「う……嘘……Dランクでも上位の魔物じゃない……」
Dランクダンジョンの中でも難易度の高いダンジョンにしか出現しないとされているレッサーデーモン。新入生が相手をしようものなら、鋭い爪で一瞬で細切れにされてしまうこと間違いない。
明確な死を目の前にし、音は先ほどまでとは全く違う理由で震えが止まらなかった。
今すぐにでも逃げたしたいのに、怖すぎて足がガクガクと震え動けそうにない。
「(嫌……死にたくない……こんなところで死にたくない……私はまだやりたいことが一杯あるのに!)」
そんな嘆きの言葉を口にすることが出来ない程に恐怖に支配されている。
このまま何も出来ないでいれば、確かに彼女の想像通りの未来が待っているだろう。
だがそんな未来はやってこない。
何故ならここにはもう一人、ダイヤがいるのだから。
「よくも猪呂さんに酷いことを言ったな!」
ダイヤは先ほどまでの音への侮辱に対する怒りを忘れた訳では無かった。
それはたとえ相手の姿が変わったとしてもだ。
「この!」
「え?」
ダイヤはまったく躊躇することなくレッサーデーモンへと突撃した。
爪を一薙ぎされてしまえば体が真っ二つにされてしまいそうだと言うのに、そんなことはお構いなしにと全力で駆けた。
「はっ!」
そして全身全霊の力を込めて、レッサーデーモンの顔面を殴り飛ばした。
「うそ!?」
ダイヤの攻撃を喰らったレッサーデーモンは大きくよろめき開いた玄関から家の中に戻されてしまう。
「よし、効いた!」
人型の時のように謎の力でガードされなかった。
あの時は攻撃してはダメというダンジョンのルールがあるのかもしれない。
大事なのはレッサーデーモンを殴ってダメージを与えられたということ。
新入生のダイヤであっても、スキルを使っていなくても攻撃が通るのであれば、倒せる可能性があると分かった。
確かにダイヤは怒りに任せて行動はしたが、攻撃が通用するかどうかを確認するための行動でもあったのだった。
「凄い……」
その効果は絶大で、絶望して心が折れかかっていた音を正気に戻らせるには十分であった。わずかながら生き延びられる可能性があるかもしれない。
「(がんばら……なきゃ!)」
ダイヤが切り開いてくれた生き延びる未来への道筋。
その光が音を立ち上がらせる。
が、しかし。
「おかあさん、学校行ってくるね」
レッサーデーモンとすれ違いに、家の中から小さな女の子が出て来た。
「あれ、音お姉ちゃんだ。おはようございます」
無邪気な笑みで音に挨拶をするその子も、先ほどまでの流れを考えるともちろんどうなるかは決まっている。
「一緒にいるのはかれしさん?いいなぁ、私もお姉ちゃんみたいに、おどごのびどとながよぐなり……だい……」
その姿がみるみるうちに変貌し、もう一体のレッサーデーモンが出現してしまった。
一体でも絶望的なのに、その相手が二体。
「よし、逃げよう」
「え?」
さすがに無理だと判断したダイヤは速攻で状況判断し、音が再度絶望するより前に手を取って彼女を強引に引っ張り駆け出したのであった。