140. 名前を付けられない
その光景はまさに阿鼻叫喚といった様相だった。
何の前触れもなく突然大地から湧き出した緑の靄は、瞬く間に人々の身体に纏わりつきその体を激しく焼き始めたのだ。至る所で絶叫がこだまし、神の怒りにでも触れてこのまま人類が滅ぶのではないかとすら思える光景だったのだが、幸いにもと言って良いのか全滅には至らなかった。
およそ二割の人間は緑の靄に触れても何も起きず、周囲の地獄のような光景にただ恐れ震えていた。
「当時の生き残りの人達は例の靄を今でも猛烈に怖がっているそうやな」
彼らから見た祖父母や曾祖父母に当たる人達のことだ。目の前で緑の靄に大量の人が焼き殺された地獄のような光景がトラウマになっていないわけがない。
「僕達にとってはありがたいものなのに、不思議だよね」
「そうね。でも当時の事があるから大っぴらには例の靄について歓迎しないように気を付けてるわ」
現役世代にとっては、緑の靄は経験値であったりアイテムに変化してくれたりと恩恵を与えてくれる『良い物』だ。いかに歴史の授業でその靄が大量虐殺を引き起こしたと説明されてもピンと来ない。
人によっては悪い物であり、人によっては良い物でもある。
悪いことも起こすし、良いことも起こす。
そのあやふやな存在を明確に定義することは出来なかったのか。
「出来ればもっと分かりやすい名前を付けてもらいたかったですけど……」
緑の靄を端的に表現することで、その曖昧さを少しでも減らして存在の輪郭を明確にする。
正体不明の何かにカタチを与えることで、不気味さを多少なりとも軽減できるはずだ。
それなのに名付けすらもしなかったのは何故か。
「難しいやろな。人は悲劇であればあるほど特殊な名前を定義せぇへんからな」
大災害が起きた時、それは日付と地名と災害の内容だけで表現される。
戦争が起きた時、それは地名や参加国の名前だけで表現される。
災害の原因や戦争の理由などを名前として掲げることはまずない。
そうしてしまったら世論の反感を買ってしまう。
悲劇の名前に詳細さを求めることはタブーなのだ。
ゆえに世界的な大虐殺を引き起こした『緑の靄』についても名前がない。
名前がつけられない。
『緑の靄』が『緑の靄』のままであること。
それこそが人々にとって大事なことなのだ。
「そんで緑の靄による大量虐殺と、ダンジョン出現が起きた後の流れはどうや。勇者君」
「ダンジョンについては各国の軍隊の生き残りが調査し、それ以外の国民は全力で社会基盤の維持に努めました。何しろ人が八割も居なくなったのですから、相当に大変だったらしいですね」
一万人の企業が二千人に減ってしまったら、運営不可能になる事業が山ほど生まれてしまうだろう。
十人の零細企業が二人になってしまったら、倒産待ったなしだろう。
公共交通機関が、物流が、教育が、病院が、一次産業が、何もかも人が足りない。
社会は大混乱に陥り、現代でもまだ社会基盤は安定していない。
「ですから最初の頃はダンジョンは無視する方針だったそうですね。ですが徐々にエネルギー効率が理由なく悪化し、ダンジョン内で採れる魔石が唯一の代替エネルギーになり得ると分かってからはダンジョンに入らざるを得なかった。ただでさえ人が少ないのにわざわざダンジョン探索にリソースを割き、ここのようなダンジョン探索専門学校が生まれたのはそれが理由です」
「皆しっかり勉強しとるようで先生大感激や」
いずれも中学までで習う常識的なことなのだが、ダンジョンに興味が無いと案外詳しくは覚えて無かったりするものだ。その点、ここにいる人達は酷く知識不足ということは無さそうだ。
「そんじゃ優秀な皆に質問や。緑の靄による大災害から今日に至るまでの社会の流れで、不自然なことがあるんやけど分かる人おるか?」
「不自然ですか?」
「せや。高校で習うことやから知らなくても変ではないで」
ダンジョン・ハイスクールでは一年生の二学期に必修授業で学ぶ内容であり、知らないのが普通だ。だがダンジョンに強い興味がある生徒達なら、習う前に知っている可能性がある。
「はい」
手を挙げたのはダイヤだけだった。
膨大なスキルをほぼすべて覚えているほどにダンジョンに興味があるダイヤだ。学校で習う範囲の予習なら完璧である。
「流石やな。じゃあ答えてや」
本当ならばそれは自力では気付けないこと。
何故ならばダイヤは今の世の中で生まれ育ったから。
そのことに気付くには、昔の社会の事を知らなければならない。
人間の行動や考え方を歴史から紐解き、それと現在を比較することで浮かんでくる。
ダイヤがそこまでしたのか、あるいは教科書的に予習して知っただけなのかは分からない。
だがその口から紡がれるのは、紛れもなく俯角が求めていた正解だった。
「反対が一切無くて、スムーズに復興が進みすぎです」
人が減少したら一致団結して文句も言わずに行動するようになるのか。
そんなわけがない。
人は常に不平不満を漏らす存在だ。
ダンジョンなんて怖いから自衛隊に速攻で潰して貰うべきだ。
人手が足りなかろうと近くのスーパーやコンビニの商品を切らすな。
物価が異常に上がりすぎだ、誰かが悪いことをしているに違いない。
いくら復興のためとはいえどうして私がそんなことをしなければならないのか、我慢しなければならないのか。
正義を曲解し、反対意見を挙げて社会を混乱させることを仕事としているような人達すらいたくらいだ。大量に人口が減少して社会基盤が崩壊しそうになったところで、団結するどころか滅亡が促進されても不思議ではない。
それほどに以前の社会には悪意が満ち溢れていた。
しかし実際にはあらゆることがスムーズに進んだ。
僅かに生き残った政治家が有志を募り新政府を立ち上げ、ほぼボランティアに近い形で復興のために必死に頭を巡らせ行動する。国民も彼らに協力し、寝る間も惜しんで働き詰め。しかもそれが日本だけなく、世界中で似たような流れになったのだ。
「せやな。減った人手を入手するために戦争になってもおかしくなかったのに、異常なまでに平和に解決しようとした。これはどう考えても不自然や」
だとすると、何らかの意図が働いていたと言うことなのだろうか。
音は漠然と思いついた疑問を口にしてみた。
「社会の復興の邪魔になる『悪い人』達が緑の靄に殺されたってことなのかしら?」
真面目で優しい努力家ばかりが生き残ったから、誰もが協力姿勢を見せたのではないか。
確かにそう思えるが、実は厳密には違う。
「ほぼ正解やけど、『悪い人』を排除したって言うのは違うって言われとるな」
「そうなんですか?」
「少ないけれど略奪とかは普通にあったらしいかんな」
『良い人』だけが生き残ったのであれば、警察の役目などほぼ不要だ。だが実際は、犯罪件数は増加したのだ。
「裏で悪さしとる政治家とか、当時は暴力団とか呼ばれていた組織とか、そういうのは完全に駆逐されたけれど、街のチンピラ連中とかは割と生き残った人がいたらしいんや」
「じゃあ人間を醜く思った神様が悪い人達を懲らしめたって訳じゃないんですね」
「せや。つーか、八割も悪人判定されたらたまったもんじゃあらへん」
良識ある人物もかなり死亡している。ゆえに緑の靄が人間の善悪を基準に虐殺したとは考えにくい。
「だとすると復興が上手く行ったのは偶々で、本当は別の目的があったってことなのかしら?」
「正確には本当の目的を実現するためには、上手く復興させなければならなかったってところちゃうかな」
「本当の目的……『明石っくレールガン』はそれを解明したのでしょうか?」
「ウチらじゃなくて世界の考察班の先輩方が解明したんや。解明と言っても状況証拠からの推論やけど、間違ってないと思うで」
昔であればそういった考察はネット上に溢れかえるものだが、社会を無用に混乱させないためにと今はそういう情報は自発的に調べ無い限りは見つからないようになっている。異常なまでのネットリテラシーもまた不自然さの一つだろう。
「んで、その不自然さの理由、緑の靄の本当の目的」
チラっとダイヤの方を見たら、自信がありそうだったので目線で答えるように促した。
「ダンジョン、じゃないでしょうか」
「大・正・解! 良く勉強しとるやないか!」
「僕も最近気付いただけですよ。凄いことに巻き込まれそうだから調べておかないとなって思いまして」
世界の秘密的な話が向こうから勝手に近寄って来たのだ。
このまま為すがままに翻弄されるのはダイヤのタイプではない。真っ向から受け止めて吸収し、糧とする以外の選択肢は無かった。ゆえにスマDを活用してネットの海を深く漁り情報を入手した。
「ねぇダイヤ。ダンジョンが答えってどういうこと?」
「つまり、僕達がダンジョンに入って攻略するようにってことが大前提なんだ。復興が上手く進まなかったらダンジョンに入る余裕なんて無いでしょ。だから復興の邪魔になりそうな人達を排除したんじゃないかな」
「でも邪魔してた悪い人達も居たんでしょ?」
「それって血気盛んな人達だと思うんだ。多分だけど、ダンジョンに意気揚々と挑戦する気概があるから残されたんじゃないかな」
「せや。当時犯罪を犯した連中は、ダンジョンが解禁されると喜んで中に入ったらしいで」
復興を大きく邪魔する訳では無く、むしろダンジョン探索のブームを牽引する可能性が高いからこそ排除の対象とならなかった。
「それとダンジョンを中心に考えると、復興よりももっと不自然な点に気付いたんだ」
「どういうこと?」
「いくらなんでも、ダンジョンに一般人が入れるようになるなんておかしくない?」
「え?」
「そういうのは警察とか自衛隊とか、専門の人がやるべきだって思うのが普通でしょ。いくらエネルギーがダンジョン産魔石じゃないと賄えなくなってきたからって、命の危険があるダンジョンで一般人が魔物と戦うことを許可するなんて普通はあり得ないよ。それなのに歴史を振り返ると大した障害が無くかなり素早くダンジョン法案が可決して入れるようになった。これって反対派となり得る人達が一掃されちゃってたってことじゃないのかな。だとするとこれだけ大量に死んじゃったのも分かる気がする」
ダンジョンという存在、そしてそのダンジョンに多くの人が入り戦うという状況。
それらを受け入れられる人だけが生き延びた。もちろん内心では反対の人もいるだろうが、それを口に出してダンジョン探索の流れを止めるようなことは出来ない人間。
少しでも誰かが傷つく可能性があることを忌避し、不可解で謎めいた物への接触を嫌がる人間が、八割程度の減少で済んだのはもしかすると奇跡だったのかもしれない。
「ちなみにこれはウチの持論やけど、ハーレムも同じ理由だと思うで」
「え?」
「ダンジョン攻略のためには人手がもっともっと必要や。だから人口をまた増やすためにハーレムや若年出産を推進してくれる人を残したんやないかな」
復興しながらダンジョン攻略となると、やはりどうしても攻略の進捗は遅くなってしまう。そのため人口をどんどん増やしてダンジョンに挑む人も増やしてもらうということだろうか。
「そういえばハーレム法案も大した反対なく成立したそうですよね。ありそう……」
そしてその恩恵をダイヤは受けようとしているというわけだ。
感謝したいけれど、その方法が虐殺ということを考えると感謝する訳には行かない。
恩恵しか受けられていないダイヤ達の世代にとっては、やはり緑の靄に対する印象のギャップに何処となく気持ち悪さを感じている。
「ただ、代替わりして、また元通りの社会に戻りつつあるようなのが心配の種やな。昔みたいな犯罪者も増えて来たみたいやし」
「『DOGGO』とかですか」
「せやせや。あんなん、ウチらの親世代だったらありえへん犯罪やで」
「う~ん……また緑の靄が出て来て虐殺なんてことになったら怖いなぁ」
「せやから、今回扉の向こうでそのことについてちゃんと話し合いをせなアカンのや」
あるいはその結果次第では、ダイヤが懸念しているような二度目の虐殺が起きてしまうかもしれない。そのことに気付いた参加者達は、これまで以上に事態を深刻に受け止めるようになった。
「ま、今はそれより例のオーラの方が問題やけどな」
「緑の靄と赤黒いオーラですか。全部の謎が解明されるのでしょうか」
「さぁ」
そんなことは誰にも分かるはずが無い。
だがどうしてか、全ての答えがあの扉の先にあるのだと、誰もが予感したのであった。