07.秘する翡翠
【あらすじ】
多くの宝石を産出する巌之国。
後宮に召された翡翠の方と呼ばれる宝石研磨士は、王の寵愛を受けるもほかの妾妃たちの嫉妬を買い、実家へ戻ることとなった。
消沈する彼女を励ます幼なじみの青年・礫の優しさは、やがて熱を帯びていき――道ならぬ恋が生むものは何か。
和風後宮ロマンスです。
蒼く切りたつ山脈に抱かれて、巌之国はひっそりとその身を横たえていた。見わたすかぎり山、山、山。盆地を切りひらいた猫の額ほどの土地に住む人は少なく、周囲から隔絶された小国だが、ひとつだけ特異な産業があった。鉱脈が豊富なのだ。人々は山の宿す原石を掘りだし、加工し、宝石としてよそに売った。そうして得られた外貨が山の暮らしを支え、巌之国は長い歴史を刻んできた。
中でも黒曜王は名君として名をはせた。たいへんな愛妻家で、かたわらにはいつも金剛后の姿があった。仲睦まじい夫婦だったが、子宝にはめぐまれず、后に先立たれても王は次の后をめとらなかった。王が齢を重ねるにつれて後継ぎ問題は深刻となり、とうとう急ごしらえの後宮が設けられることになった。貴賤を問わず集められたのは、金剛后によく似た顔立ちの女性ばかりだった。
七人の妾妃の寝房のうち、黒曜王は翡翠の間へ足繁く通った。この部屋に住む翡翠の方は腕の立つ宝石研磨士で、その尊称のとおり、玉藻のような深い緑色の髪と目を持つ。気取らない性格の彼女を、王はいたく気に入った。
職人の出でありながら王の寵愛を受ける彼女は妾妃たちの嫉妬を集めた。妾妃たちの中でもっとも身分の高い紅玉の方やその取り巻きたちから翡翠の方は爪はじきにされ、数少ない持ち物がなくなることは日常茶飯事。留守中に長持の中の衣を汚されたり、切り刻まれたりしたこともあった。
とうとう耐え切れなくなった翡翠の方は、黒曜王に暇を願い出た。王は委細を訊ねないまま申し出を許し、彼女は町へ戻ることとなった。
彼女が実家の宝石加工場へ帰ってから数日が経ったころ。
家業を手伝おうと翡翠の方が土間の研磨機の前に座ると、父親が慌てて飛んできた。
「なにをなさいますか、御部屋様!」
「その呼び方はやめて。おっ父」
翡翠の方は思い切り眉をしかめた。父親は翡翠の方を研磨機から引きはがして取次の板間に座らせた。
「あなた様は王のだいじなお方。静養に戻られたというのに、怪我でもなさったら王に申し訳が立ちません」
「久しぶりに石を磨きたいのよ。手を動かしていたいの」
「なりません!」
父親は翡翠の方を部屋に押し込め、「じっとしていてください」と言い置いて、土間へ戻っていった。足音が聞こえなくなると、翡翠の方はばたりと仰向けに寝転んだ。
(お妾さんになってから、ほんとついてない。後宮ではいじめられるし、実家では腫れ物扱い。私の居場所なんてどこにもないみたい)
翡翠の方はため息をついて目を閉じた。黒曜王は穏やかで優しいが、なにせ親ほどの年齢だ。善良な人物であるのに間違いはないが、夜な夜な翡翠の方の部屋を訪れて語るのは、亡くなった金剛后との思い出ばかり。妾妃たちに与えた衣装も、全て后のお下がりだ。
(趣味が悪いわよね。お后様似の女の子ばかり集めて、着せ替え人形みたいにおべべを着せて遊ぶなんてさ。それでお后様が生き返ったような気分にひたってるのかしら。それとも、お后様とのあいだに娘がいたら……なんて想像してたりして)
ぞくりと背中に寒気をおぼえ、翡翠の方はごろりとうつ伏せになり顔を覆った。
(断ればよかった!)
しかし招状を拒めないのは、彼女自身がよく分かっていた。そもそも、町娘が後宮に上がるなどという無茶苦茶な話が出る時点で、彼女が特殊な事情で選ばれたのだということは明らかだ――自身が金剛后に瓜二つであるのは、自覚している。ありがた迷惑な他人の空似だが、断れば王の面目を潰すことになる。彼女は入内するよりほかなかった。
(それにしても、紅玉の方もお后様にそっくりだったなぁ……意地悪だったけどさ。今頃、あのひとが王のお相手をしてるんだろうな)
きらびやかな後宮を思い出すと、翡翠の方の胸のうちに苦いものが広がった。
(おっ父からも『御部屋様』なんて言われちゃった。もう私のことを普通の名前で呼んでくれるひとなんて、いないのかな)
冷たかった床板がぬくもるほど長い間、翡翠の方は寝そべっていた。山からとうとうと流れてくる川の音が耳にこころよい。川の水流は、巌之国の大切な動力源だ。この自宅兼工房の研磨機も、水力によって動いている。翡翠の方はじっと川音に聞き入っていたが、床にぴっとりとはりつけていた耳に、父親ともう一人、誰かの足音が聞こえてきて、むくりと上体を起こした。そっと部屋を抜け出して様子を窺うと、居間に来客があるようだった。父親と客人の声がする。
「ありがとう、礫。今回は早く帰ってきたね」
「おじさんの石が評判だったから早く売れたんだ。おみやげも、ほら、いっぱい持ってきたよ。御殿に持っていってよ」
「いやぁ、それが……あいつ、出戻ってきちまってさ」
どうやら自分の噂らしいと気付いた翡翠の方は、居間の入口でわざとらしく咳払いをした。気付いた父親が慌てふためく。
「これはこれは……御部屋様」
「ミドリ!」
客の青年が、仰天して翡翠の方をまじまじと見つめた。
「お前、御殿へ行ってたんじゃないのか。どうしたんだ」
「あー……ちょっと、色々あってさ」
「大丈夫か」
礫は、翡翠の方の幼なじみだ。同い年で、子どもの頃はいつも一緒に遊んでいたが、長じて宝石商となってからは、諸国をめぐる商いの旅で留守がちだ。それでも時々帰郷した折には、こうして翡翠の方を気にかけてくれる。ぼさぼさの髪は色が抜けて灰色になっていて、長旅の苦労を思わせた。
ミドリというのは、翡翠の方の本来の名だ。今では誰も呼ばなくなった名だが――
(礫は、私をまだミドリって呼んでくれるんだ)
誤魔化し笑いをうかべる翡翠の方を見て、礫は翡翠の方の父親に提案した。
「ちょっとミドリと町に出てもいいかな。気分転換にさ」
父親は言葉を濁した。
「あ、あぁ……気分転換が必要というのは分かるが……ここに戻られているというのがあまりご近所に知られては、御部屋様の面目が」
「了解。目立たないようにするよ。さ、ミドリ。準備してきな」
こうして翡翠の方は礫とともに市へ繰り出すこととなった。小袖を頭からすっぽりかぶった被衣姿は、鬱陶しいが人目を忍ぶにはもってこいだ。
二人の足は自然と石売りの露店の集まる界隈へと向いた。新品や特注の宝石は、きちんと店を構えた商人が扱うが、この露店市には訳ありの品や中古品、流通しにくい原石などが並んでいた。二人は目についた石についてあれやこれやと議論を交わしていたが、やがて黙りこくって別々の露店の前で足を止めた。礫はアンティークの宝探しを始めたようだった。翡翠の方は原石を眺めた。色とりどりの原石を見ていると、どんな風に加工したら石の魅力を引き出せるか、どんな輝きを放つようになるか、アイデアが際限なく広がっていく。翡翠の方は原石の群れを眺めながら夢想にふけった。
ずっとかがめていた背中が痛くなって背伸びをすると、翡翠の方の目にある石が飛び込んできた。
長机の上には、加工の途中で割れたり欠けたりした宝石が並んでいた。中でもひときわ目を引くのは、色味も照り艶も申し分ない翡翠の腕輪だった。若葉のように柔らかな緑色が印象的だ。逸品であるのは間違いないが、無残にも半分にぱっくりと割れていた。
翡翠の方が無言でそれを見つめていると、いつの間にかすぐそばに来ていた礫がつぶやいた。
「もったいないな。これほどの素材なのに」
翡翠の方は隣をちょっと見やってからすぐに腕輪に視線を戻した。
「ジェダイトは柔らかいけど、粘り強くて割れにくい石なのよ。よほどの力が加わったのね……」
腕輪を見ていた礫は顔を持ち上げて翡翠の方を見つめる。彼女の言葉の続きを待っているようだ。翡翠の方はほとんど独り言のようにささやいた。
「どれだけ貴重な石も、研磨で失敗すると台無しになる。研磨士の仕事には、石の育ってきた年月と、採掘人の苦労がかかってるんだわ」
礫はじっと黙って翡翠の方の言葉を聞いていた。彼女が自身の仕事に強い思い入れを抱いているのは、その成果品を売りさばく礫には痛いほどよく分かっていた。翡翠の方は腕輪に見入り、礫がこぶしを握っているのに気が付かなかった。
巌之国に滞在する五日間、礫は商売の合間を縫い、何かにつけて翡翠の方を連れ出した。彼女も、それが楽しみになっていた。
最終日の夕刻、翡翠の方は、次の旅商の準備を終えた礫と食事をとることにした。食堂では何かと人目につくので、礫が鹿鍋をこしらえた。礫の家には良い香りが充満し、翡翠の方の胸は踊った。
山菜ときのこがたっぷりの甘辛い鍋が空になるころには、翡翠の方が持参した酒も底を尽きかけていた。いつの間にか振り始めた雨が、おもての路地を激しく叩きつけている。礫が軋む雨戸にちらりと目をやった。
「こりゃあ、しばらく止まないな」
山の天気は変わりやすい。篠突く雨の勢いは増す一方だ。翡翠の方のこめかみを、酔いと雨音が順繰りに締めつける。まだ宵のうちだ。雨が落ち着くのを待って、ゆっくり帰ればよい。翡翠の方は、瓶に残っていた最後のどぶろくを手ずから杯に注いだ。
「おい、飲みすぎじゃないか」
「御殿じゃ好きに飲めないからさ。不自由なものだよ」
「石を磨くこともできないってか」
礫の突然の物言いにどきりとして、翡翠の方は顔を上げた。礫は翡翠の方を正面から見据えていた。
「仕事一筋のお前が、石を買わずに見てるだけなんておかしいだろ。らしくもない。妾なんてやめちまえよ」
礫の灰色の目は、豪雨とおなじ激しさで翡翠の方を射抜く。瞳は熱を帯びていたが、白目にも頬にも赤みはない。酔った勢いでの発言ではないと、翡翠の方は直感した。強烈な痺れが背筋を走る。雨が二人を狭い部屋に閉じこめているように、翡翠の方は礫の視線にとらわれて少しも動けなかった。
「俺と一緒に来い。ミドリ。よその国へ連れて行ってやる」