02.雛鳥は黄昏星の檻の中
【あらすじ】
様々な階層が存在する多層世界――世階。
その中の一つ、人間が住む浄刹階、さらにその中のとある一つの国――蓮台。
そんな蓮台国を支配するのは呪術師を多く輩出する五大貴族、近衛、一条、九条、鷹司、二条だった。
九条 雛。少女はそんな名家の一つ、九条家の跡取り娘として生まれた。
血筋、美貌、頭脳、呪術の才、稀有な従魔……全てを手にしているかのように見える少女だったが、その心は満たされず、常に乾いていた。
けれど十四の春の夜、雛の運命は許嫁の心変わりという茶番劇で唐突に動き始めた。
月を掴もうと手を伸ばす雛鳥と、雛鳥を惑わせ弄ぶ黄昏星の攻防戦、いざ開幕。
繊月と枝垂桜を観客に、首切螽蟖が歌う春の夜。
「雛、どうか僕との婚約を解消してほしい」
「いや! 絶対にいや‼」
灯籠の仄かな灯りに照らされた池泉回遊式庭園を舞台に演じられていたのは、紫黒の髪に緑の瞳の青年と、濡烏の髪に金の瞳の少女の痴情のもつれ。
「お願いだ、雛。僕はもう、これ以上自分の心に嘘を吐き続けられない」
「なんでよ! 孤月は私の許嫁でしょ、なんでそんなこと言うの⁉」
激昂する少女――雛――に、青年――孤月――は小さく「ごめん」とつぶやく。
「雛、きみのことは好ましく思っている。努力家で、誇り高くて、言葉はきついけど本当は優しくて」
「なら、どうして!」
孤月は少しだけ困ったように眉を下げると、「でも」と言葉を続けた。
「どうしても、だめだったんだ。この七年間、努力した。でも、僕にとって雛は妻や恋人ではなく……大切な妹にしか、思えなかった」
孤月の言葉に雛はぐっと拳をにぎる。
――そんなこと、知ってた。孤月が私を見る目に、熱なんてかけらもなかったこと。
それでも、雛は諦めていなかった。
自分はまだ十四の小娘。十七の孤月には子どもにしか見えないであろうことなど自覚していた。出会いは雛が七つの頃。そんな頃から一緒にいるのだ。優しい孤月が幼い雛を傷つけないため、女としてではなく、妹として認識してしまうのも仕方ないことだとも理解していた。
「今はまだ、妹でもいい。でも、私、もう十四だよ。今なら孤月を受け入れられるし、だから――」
「もう、無理なんだ。僕は……僕の心は、雛を裏切ってしまっているから」
孤月の言葉に、雛の顔から血の気が引いていく。
「彼女だけなんだ。心も、命も……僕の全てを捧げられる女性は」
幽けき月明かりに照らされた舞台、枝垂桜から見下ろすは、笑みを湛えた黄昏星。
「あーあ、だーから忠告してあげてたのに」
くつくつと。抑えきれない愉悦をにじませる黄昏星は、慈愛と嗜虐の眼差しを雛に注ぐ。
「早く堕ちておいで。大好きだよ……かわいそうでかわいい、俺のヒイナ」
* * *
呪術師を育成する教育機関――国立呪術大学寮。その静かな図書室に間延びした青年の声が響く。
「なーなー、ヒイナー」
さらりとした翠玉の髪を揺らし、金の双眸を猫のように細めた青年が雛にじゃれついていた。
「うるさい。静かにして、夕星」
「だってー、ヒイナがかまってくれないんだもーん。しくしく、こんなかわいくて従順な従魔に対して、ヒイナってばひどい」
間延びした声の主――夕星――は白々しい泣きまねをすると、机に向かう雛を背後から抱きしめた。
「鬱陶しい、離れて。そもそもお前は、かわいいとも従順とも程遠い。はぁ……なんでお前なんかが私の従魔に」
従魔――この国の呪術師ならば、必ず一体は従えている異階の住人。
雛たち人間が暮らすここ浄刹階とは異なる世階、九泉階と呼ばれる階層に住む妖魔たち。その姿は獣から蟲まで様々で、力の強い者ほど人に近い姿をとるという性質を持っていた。
「それは~、ヒイナが優秀だったからでーす。俺の一本釣り、おめでとー」
雛の従魔である夕星はほぼ人型で、人間との違いは猫のような縦長の瞳孔くらいだった。
「お前なんか釣り上げたくなかったんだけど。勝手に押しかけてきて勝手に従魔になって、迷惑でしかない」
「えーん、ヒイナが冷たいよ~」
何度注意しても声量を改めない夕星。彼が周囲に及ぼす迷惑にいい加減耐えられなくった雛は広げていたノートや本を片付ると、深緋色の袴をはためかせ図書室を後にした。
「次の試験までもう時間がないのに。もし私の成績が落ちたら夕星のせいだから」
「他人のせいにするのよくなーい。あ、じゃあさ、俺がこっそり試験問題見てきてヒイナに教えてあげよーか?」
「九泉に帰れ、押しかけ妖魔。不正なんてあり得ない」
「ヒイナってば、ほーんとマジメなんだから。もっとズルく生きれば楽なのにー。でも、そんなとこも俺は好きだよ」
夕星の軽口を無視し、雛は駐車場に待たせてあった迎えの車に乗り込んだ。そのまま隣に座った夕星を視界からはじき出すように窓の外へと顔を向ける。
ふと見上げた暮れなずむ空、そこにあったのは一際明るく輝く星。視界からはじいた夕星を思わせるような一番星。
――私が欲しいのは、一番星じゃない。私が欲しいのは……
雛の脳裏に浮かんだのは、雨上がりの木々のような瑞々しい新緑。決して熱を宿さない、優しいけれど残酷な緑。いくら手を伸ばしても届かない、孤独な月。
――いつだってそう。私が一番欲しいものは、絶対手に入らない。
雛はこの国の五大貴族の一つ、九条家の正当な後継者として生まれた。血筋、美貌、頭脳、呪術の才……全てを備えた、完璧な姫君。そう、世間から評されていた。
――完璧な人間なんて、そんなもの存在するわけないのに。
恵まれている側だと、雛もそれは承知していた。持つ者ゆえのしがらみや重圧、義務は確かに多いが、少なくとも今日明日の食べ物や寝床に困ったようなことは一度もない。
――贅沢、なんでしょうね。
恵まれている。けれど、雛の心はいつも乾いていた。
「ヒイナ。ねえ、欲しいものがあるなら言っちゃいなよ。優しい優しいヒイナだけの従魔が、どんなことをしても叶えてあげるから」
雛より優に頭一つ分以上背の高い夕星が、その長い手足で雛を抱え込む。
「結構よ。お前みたいな妖魔の甘言なんて信じたら、どんなひどい目に遭うか。それといつも言っているけど、気安く触らないで」
「もー。ヒイナってば、ほんっといつも塩なんだからー。でも、そんなとこも好きー」
この「好き」を大安売りする従魔に、雛はほとほと困り果てていた。
夕星はほぼ完全な人型をとれる、とても力の強い妖魔だ。こんな強い妖魔が、なぜ大学寮に入りたての呪術師見習いの呼びかけなどに応えたのか……従えて一週間、雛はいまだ夕星の思惑がわからなかった。わからないから、彼の何もかもが信じられなかった。
「しっかしヒイナってば、相当な鋼の精神だよねぇ。こーんなイケメンに毎日『好きー』『愛してるー』って言われてんのに、顔色ひとつ変えないなんてさぁ」
「確かに夕星の顔はきれいだと思う。けどそれ、自分で言う?」
「言うよ~。だって事実だし。それにさ、俺レベルのイケメンが謙遜したら逆にムカつかない?」
「……確かに」
そんな他愛のない会話をしているうちに車が屋敷に到着した。使用人たちに出迎えられ雛と夕星が屋敷に入ると、執事が待っていた。盆に乗せた手紙とペーパーナイフを雛に差し出す。
「近衛様からでございます」
「孤月から?」
雛はその場で封を切ると中を検めた。内容はいつものデートのお誘いだった。
「夕餉の前にお返事を書いてしまうから、しばらくしたら取りに来てちょうだい」
「承知いたしました」
雛は部屋に戻ると、すぐに孤月への返事をしたためた。
「ヒイナはさぁ、いつまでアイツとおままごと続けるの?」
「アイツって……孤月様って呼びなさい」
「いやでーす。あんな見る目ないヘタレヤロー、アイツで十分ですー」
「夕星、口を慎みなさい。あなた、孤月の何が気に入らないのよ」
「なにもかも!」
宙であぐらをかく夕星は、「アイツはダメー」としつこく雛にまとわりついていた。
「なんで夕星がそこまで孤月を嫌うのかはわからないけど。でも、どんなにあなたがダメだって言ったところで、この婚約は九条家と近衛家の契約よ。私や孤月の一存でどうにかなるものではないの」
「もー! せっかく忠告してあげたのにー」
夕星はぷいっと顔を背けると、すっかり闇色に染まった空へと消えてしまった。
* * *
それから三日、夕星の態度はすっかり元通りになっていた。
「今夜だっけ、アイツとのデート」
「孤月様、でしょ。そうだけど……夕星、邪魔しないでよ」
「ひっどーい。俺ってばそんなに信用ないわけー?」
「ないわ。むしろ、あると思ってたの? そうだ、デートの間はどこかに行っててね」
「ヒイナ、今日も俺の扱いがひどい! もー、好き‼」
何を言っても最終的に「好き」になる夕星に呆れていると、ふいに車が停まった。
観光地にもなっている有名な庭園。ここが今日、孤月と会う場所。入口に行くと、すでに孤月が待っていた。
「こんばんは、雛。来てくれて、ありがとう」
「ありがとうだなんて。私が孤月からの誘いを断るなんて、あるわけないでしょ」
かわいらしくはしゃぎ微笑む雛に、孤月は一瞬だけ悲しそうな顔をした。けれど、それは本当に一瞬のこと。雛はいつも通り気づかないふりをし、天真爛漫で愚かな少女の仮面をかぶった。
それから二人はゆっくりと庭園を散策し、やがて池のほとり、咲き誇る枝垂桜のもとに辿り着いた。
「雛。大切な話があるんだ」
沈丁花香る夜の庭園。空に繊月、風に桜、舞台で歌うは首切螽蟖。
立ち止まった孤月は、まっすぐに雛を見た。
「雛、どうか僕との婚約を解消してほしい」
「いや! 絶対にいや‼」
雛の悲痛な叫びと共に、ざあっと桜の花びらが舞い踊る。
そして始まったのは、春の夜の茶番劇。恋に酔う青年と、愛を求める少女と、歪んだ愛を注ぐ化け物の……