21.君のうなじを吸いたくて
【あらすじ】
蜜は17歳。矢橋屋という旅籠の女将として質素に暮らしている。幼少期から蜘蛛に取り憑かれている蜜は、その力で妖を倒し、人知れず町を守っていた。
蜘蛛が日光を嫌う為、蜜は髪で背中を覆っている。年頃の娘が髪を結い上げない姿を、周囲は不思議がった。
ある日、藤鷹 鐙が矢橋屋を訪れる。武家の嫡男である鐙は、代々伝わる『呪抜刀』に取り憑いた妖を解く方法を探していた。刀を元に戻すまでは元服しないと誓っている鐙は、月代を剃らず前髪も残していた。
事情を知った蜜は、鐙に協力したいと申し出る。やがて、鐙への恋心が蜜の中で芽生え始める。しかしそれは、眠る蜘蛛を呼び起こす餌でもあった。
〈妖とは、若い女のことよ。お前も妾に喰われるがよい〉
呪われた運命と戦う2人の和風(時代劇風)ダークファンタジーロマンです。
「明るいなぁ……」
頭上で輝く満月を見ながら、蜜は呟いた。
雲一つ無い空で真ん丸の月が淡黄色の光を発している。これでは空は黒色なだけで、お日様と何も変わらないではないか。
長い髪を背中にだらんと垂らし、蜜は浴衣一枚だけの姿で裸足のまま歩く。こんな端ない姿を誰かに見られたら大変だ。蜜は慎重に進む。満月の明るさが憎かった。
蜜は東西に伸びる間道に到着した。大名行列が同時に三列進んでも、充分ゆとりがある程の幅広い空間である。道の向こうに橋がある。橋の先は関所になっている。夜間は閉まるので、当然人はこちら側にやって来ない。
だが、蜜の額にかかる前髪がピクリと反応した。
いる。
いつもと違うのは、それと一緒に人の気配もあることだ。
蜜は走る。間道を横断し、橋の傍の川辺りの坂を下った。
黒い炎に包まれ辛うじて猪と分かる大きな黒い塊が、鼻息を荒くしていた。その足元に人影が見えた。やはり、妖が人を襲っていたのだ。
蜜は念じる。すると、蜜の髪の毛が舞い上がり、八本の脚のように束を作って広がった。その内二本が素早く伸びて猪を刺し、川へ突き落とした。
猪は川面で蠢いている。蜜は倒れていた人を起こし、茂みの方へ連れて行った。男だった。ずぶ濡れだが、痛手は負ってないようで、蜜が促すと自力で歩いた。
男が座り込んだことを確認し、蜜は猪の方へ向かう。猪は川から上がっていた。牙を振り、興奮している。体高は蜜を超える。
「妖め、ここから先へは通さぬ。喰われたくなければ、今すぐ去れ」
警告も意味なく猪が突進してきた。
八岐の髪が今度は六本、猪の身体を突き刺す。
巨体は串刺しのまま持ち上げられる。まるで早贄のようだ。刺し口から漏れる黒い液体が、髪の毛に染みていく。
〈美味い……。喰わせろ……〉
女の声が身体の内側から聞こえてくる。
蜜が両手をかざし力を込めると、残り二本の髪が猪の両側まで到達する。そして扇のように拡がり巨体を包み込んだ。蜜の身体がどんどん熱くなる。大木を折るような鈍い音と共に、猪は握り潰された。一滴もこぼすこと無く、髪の毛は蜜の方へ帰っていく。
やがて髪は元の長さと量に戻った。潰した猪が髪から頭皮に入り込み、うなじへと流れ、背中を伝う。妖に獣のような重さはない。しかし溶かした鉄が皮膚の下を通り抜けるような感覚は、何度経験しても慣れることはない。女が悦びながら喰らう音が奥底から聞こえてくる。蜜は腹を抑え、痛みと邪悪な力に耐えた。
〈久々の上物だった。妾は満足よ……〉
身体が落ち着き、額の汗を拭いながら蜜は振り返った。
男の元に向かう途中でフウっと息を吐く。蜜の中には妖が棲み着いている。妖は己より強い妖を怖れる。今の猪のように喰われてしまうからだ。蜜の中にいる妖は強い。妖気を込めた息を撒いておけば、しばらく何も寄ってこない。
ずぶ濡れの男は袴に脚絆を着け、腰に刀を差していた。浪人にしては身なりが整っている。汚れも新しいものだ。本来なら関所を通って入れるだけの身分と懐の持ち主が、不運にも妖に襲われ、ここまで引きずられたのだろうと蜜は推測した。
一つ奇妙なのは、この侍らしき男は笠ではなく手拭いを頭に被っていることだ。ぽたぽたと水滴が落ちる手拭いの端から目が開いているのが見えた。
「お侍様、もう大丈夫です。妖も野犬も出てこないようにしました。ご安心ください」
「かたじけない……」
疲弊しているが、しっかりした声だ。
蜜は内心焦った。猪とのやり取りを全て見られたのではないかと。
旅籠に連れ帰り、弦造の術で、侍の記憶を惑わすしかないが、自分が運ぶと正体を知られてしまう。それは避けたい。
「お侍様。後で人を寄越します。
坂を上って、矢橋屋という旅籠を訪ねてください。『二通り・は抜け下西』にあります。そこで養生なさってください」
「そなたは……」
侍は顔を上げた。蜜は夜目が利くので、侍の顔立ちがはっきり見えた。思っていたよりも若い。口元は引き締まり、鼻先は程よく尖っている。眼差しから品の良さが伺えた。
「名乗る程の者ではございません。
今宵ここで起きたことも、夢だとお思いください」
「ということは、俺が見たものは本物なんだな」
蜜は息を呑んだ。困惑せずにはいられぬ事態のはずだが、侍は実に鋭く冷静だ。
「とにかく、人を呼びますので。少しお待ちください。このままでは身体が冷えてしまいます」
「身体が冷え……」
侍は言葉を止め、目をそらした。
「それは、そなたも同じだろう」
「……あっ!」
侍の言葉の意味に、蜜は気付いた。
蜜はほとんど半裸だった。襟が開けて肩と乳房が露わになり、捲れたままの裾からは太腿まで見えている。
蜜の中にいる妖が、夜闇を浴びたがるので、力を使う時は浴衣一枚しか着ることが出来ないのだ。おまけに力を使うと身体が熱くなり、動きも激しくなるので、どうしても肌が出てしまう。
「お見苦しいものを、申し訳ございません!」
蜜は顔を真っ赤にしながら、急いで浴衣を直す。
「人を呼んできますので」と会釈してその場を離れた。
帰り道、満月が眩しいとさえ思えた。恥ずかしさで全身がむず痒い。侍の表情と声が頭に焼き付いて消えない。叫びたい気持ちを堪えながら、蜜は旅籠・矢橋屋へ戻った。