12.犬獣人の従僕の溺愛は、姫君には忠義と映る
【あらすじ】
妖精郷の姫エメリンは途方に暮れた。
いにしえからの慣習で、王族の継嗣は、いちどは強固な魔法で守られた《郷》を出て《外》で暮らさねばならない。
それはわかる。わかるが……
緑の楽園から一転、広大な砂漠へ。供は幼い頃から側にいる犬獣人の青年がひとり。
目指すは人間族が管理する、由緒正しい学園都市《オアシス》。
留学し、卒業すれば慣習は終了とみなされ、妖精郷に帰ることができる(はず)。
今、運命に流されがちなエメリンの試練ときが、のんびりと始まった。
砂漠がある。見渡せど見渡せど砂。360度――
エメリンはあんぐりと口を開けた。
「冗談でしょ。まじでここを?」
「登るんです。お嬢様。例外はありません」
「わたしが記念すべき第一号になってもいいのよ?」
「面白い冗談ですね。さぁどうぞ」
「ぐっ」
容赦ない従僕の一言でエメリンの希望的観測はあっという間に打ち砕かれた。しぶしぶと外套を被り直し、目の前に立ちはだかる急勾配の坂へと向かう。
が、差し出された手をとると、ふいに引き寄せられた。そのままふわりと抱き上げられる。
ほどよく筋肉のついた、引き締まった体躯――砂犬獣人のディザードは、ふだんは全く犬っぽい要素がない。
銀茶色の長い髪に金の瞳。肌は浅黒く、すらりと伸びた長身はむだに姿勢が良い、はっきり言って見栄えはいいほうだ。
外見は十八歳くらいだが、エメリンは彼の正確な年齢を知らない。
ただ、物心ついたときから側にいる。同種の仲間は見たことがなく、謎多き存在だった。
ザッ、ザッ。
一歩ずつ、確実に登るディザードの歩調は揺るぎない。
太陽はこの丘の向こう側で昇り始めたばかり。だから、空気はまだひんやりとしている。
白み始めた空は、けれど頂上を越えたあとの灼熱をも予感させた。辟易と溜息をつく。苛酷な地と、聞いてはいたけれど。
ちらっと、来た方向を見遣る。《郷》への魔法の門はすっかり消えていた。砂と空以外は何も見えない。
従僕の足跡が増えるたびに規則正しい振動が伝わり、フードが後ろにずり落ちる。
風で流れる黒髪をうっとうしげに払いながら、エメリンは今日何度目かの疑問を口にした。
「……どうして我が一族は、代々の後継ぎを必ず《外》にやるのかしら」
ディザードは律儀に頷いた。
「妖精郷の大切な指針ですね。次代の王の外遊――――大がかりな通過儀礼と申しますか。《外》とは、すなわち人界。人間との盟約を意味します。両者の」
「“両者の友誼をもって和を尊ぶべし。魔郷の民に惑わされるなかれ。必ずやこれを見つけ出し、手を携えて退けよ。百年に一度の義務である”」
「はい、よく出来ました」
「いやんなっちゃう」
「ふふっ」
ほのかに犬歯を覗かせて笑うディザードは珍しい。エメリンは翠の瞳をみひらき、まじまじと従僕の整った顔を見上げた。そこに目当てのモノを見つける。
「出てるわよ、耳」
「失礼しました」
「また嬉しいことがあったの? おかしなディザード。わたしを下ろしてもいいのよ? ちゃんと歩くのに」
「滅相もありません」
途端にシュッと砂色の獣耳が引っ込んだ。髪に隠れているが、代わりにヒト型の耳が現れているのだろう。
(本当に不思議)
ぼうっとかんがえるうちに頂上に差しかかった。遮るもののない朝日に額と目を焼かれ、きゅっと縮こまる。
すると、さらにしっかりと抱き込まれた。額の上から笑みを含む声が落とされる。
「見えますよ。ご覧になりますか?」
柔らかく促され、眼下へ顔を向けると、思わず声がもれた。
「わ、あ……!」
「あれが《オアシス》。かつての大戦で強大なる魔王を打ち取り、亡骸を封じたと伝えられる跡地に建設された都です。良かったですね、相変わらず栄えています」
「? 楽しくなさそうね」
「別に」
無表情のディザードは、するりと視線を逸らした。
砂の大海原のただなかに、キラキラと湖面が光る。緑樹が茂る。大小に並ぶ建物の屋根はみんな白い。ひときわ高い鐘楼からは、長く尾を引く鐘の音が聞こえた。風に乗り、わずかだが水の香りがする。
身を乗り出すように眺めていると、ふいに視界が翳った。
顔を上げると、近づいてきたのはディザードの顔だった。怜悧な頬に伏せられた長い睫毛の影が印象的だ。感情の読み取りにくい金の瞳がこちらを見ている。
至近距離ではあったが、経験上じっとしておく。
綺麗な顔は横を向き、ゆっくりと顎先が通り過ぎた。はむ、と何かを咥えて戻る。
――ずり落ちた外套の、フードの布地だった。
耳のあたりで中途半端に引っかかっていた主のフードを直したディザードは、満足げに微笑む。
エメリンは「ありがとう」と呟き、やや胡乱な目つきで言い募った。
「いくら、手が塞がってるからって。わざわざ噛まなくっても、自分で直せるのよ?」
「存じております」
「尻尾、出てるわよ」
「そのうち引っ込みますよ」
言うや否や、今度は頬に軽い口づけを落とされた。
下り坂の歩速は軽やかさを増し、ふさふさの尻尾がリズミカルに揺れる。ご機嫌だ。
エメリンは、これら全てをディザードの「行き過ぎた忠義」と捉えている。
彼らにとっては、欠かせぬ感情表現なのだろう――犬獣人ゆえの。
「……獣性というのも、たいへんねぇ。重くはない?」
主の問いに、ディザードはあでやかに微笑んだ。
「まさか。エメリン様は羽のように軽いです。しっかり抱いておかなければ、俺が心配なので」
「そうそう風に飛ばされたりしないのよ?」
「気持ちの問題です」
「ふうん」
――――わかったような、わからないような。
エメリンは、なるほど、どうやらオアシスに着くまではずっとこのままらしいと観念し、こてん、と彼の胸に頭を預けた。