追憶の彼方
その子が家に来たのは
暖かな陽射しが降り注ぎ
冷たかった風が少しずつ心地よく感じられるようになった頃
学校から帰ってきた私は
白い毛に黒いぶち模様が混ざった彼が
いつものように出迎えてくれるのを見つけると
とっさに身構えて抱きかかえた
油断をすると
彼は飛び掛った勢いで
そのまま私に口づけをするので
うまくいなさなければならないのだ
出迎えてくれるのは可愛く愛しいのだけれど
この癖だけはなんとかして欲しい
ひとしきり彼の手厚い歓迎を受けた後
居間に向かった私は見慣れぬものを目にした
くるくるとカールしたブラウンの毛が可愛らしい
とてもとても小さな子が
居間の中からこちらをじっと見つめていたのだ
あまりの驚きに、私はしばらく入り口で固まってしまっていた
その子はしばらくこちらを見つめた後、
怯えるかのように窓のカーテンの裏まで駆け去ってしまい
私はそれでようやく我に返ることが出来た
その子の傍には妹がいて
そんな私の様子を面白そうに眺めていた
それが私とその子の初めての出会いだった
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妹が連れてきたその子には「ナナ」という名前がつけられた
その子は女の子だった
ナナは他人に触れられる事に酷く怯えているように見え
家に来てからも、いつもみんなとは距離をとっていた
食事をする時も、
決してみんなと一緒に食べようとはせずに
少し離れた場所で一人で食べることが多かった
傍に寄ると、
食べるのをやめてしまうため
誰もナナの傍に寄る事はしなかった
ナナが一人っきりでなくなったのは
湿った熱い風が家の中を吹きぬけるようになる頃のことだった
その日、家に帰ってきた私は、
いつものように出迎えてくれる白黒の「彼」の出迎えがなかったので
少し不思議に思いながら玄関を上がると
やがてゆっくりとした様子で
彼が居間から姿を見せた
その傍にはナナの姿があり、
ナナはしきりに彼の首もとにじゃれ付いていた
彼が少し困った顔をしてこちらを見ているのが
なんだかとてもおかしかった
ナナが彼に懐いたのは
それほど不思議な事ではなかった
彼は自分からナナの傍に行くことはなかったけれど
一番長くナナの傍にいたし
なによりも、ナナから見れば
とても大きな、傍にいるだけで威圧感のある私に比べれば
少し大きな彼のほうが、傍にいるには気が楽だったのだろう
相変わらずナナが私の傍に寄り付くことはなかったし
私が近寄ろうとすると、急いで物陰に隠れてしまったけれど
それでも、一人ぼっちではなくなったことが私には嬉しかった
長い夏休みも終わり、
少しずつ、風が冷たくなり始めていた
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夜の帳が下り、
虫達の鳴き声が辺りを包むようになる頃には
彼もすっかりナナにじゃれつかれる事に慣れたようだった
始めの頃はどうして良いか分からずに
ただただ立ち尽くしていた感じで
その後しばらくは、少しわずらわしげな感じをしていた
一度ナナが加減を忘れて飛びつくことがあって
その時ばかりはいつも無口にじゃれ付かれている彼も
ナナをちゃんと叱り付けていた
その時のナナは少し沈んだ様子だったが
彼はその後も何処にも行かずナナの傍にいたので
ナナは安心して彼の傍で眠りについていた
それからのナナは
始めの頃ほど彼にじゃれ付くこともなく
けれど、変わらず彼の傍にいるようになった
私達は相変わらずナナの傍で一緒にいることは出来なかったけれど
それでも、始めの頃に比べれば、逃げられることもなく
少しずつだけれどお互いの距離が近づいているようで嬉しかった
ある日の夜、
私は自室で一人、本を読んでいた
夜も更けて、家族は皆寝静まっていたが
私はなんとなく寝付けなくて
仕方なく、眠くなるまで本を読む事にしたのだ
窓から入り込む冷気が少し肌寒い夜で
私は膝に毛布をかけて座っていた
そうしてどれほどの時間が経っただろう
ふと本から視線を上げると、
部屋の隅にナナがいるのが見えた
廊下から差し込む光を背にして
なぜかこちらをじっと見ている
「おいで・・・」
気まぐれで、そう声をかけてみた
いつもは警戒させてはいけない、と
声をかけることはしないのだけれど
今日はなぜか、自然とそう声をかけていた
ナナはその後もしばらくこちらを見つめていたが
やがてゆっくりとこちらに歩み寄ってきた
傍に来てくれたことが嬉しくて
私はナナを抱き上げて膝の上に座らせてみた
その日のナナはなぜかとても大人しく
私の膝の上に座ると
そのままうとうととし始め
しばらくすると、そのまま私の膝の上で眠ってしまった
ただ傍に来てくれただけで
私に対して何かをしてくれたわけでもなかったけれど
それだけのことが私にはとても嬉しかった
結局、私はこの日、
ナナがもう一度目を覚ますまでずっと
彼女の頭を優しく撫でながら
彼女の寝顔を見つめていた
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翌日は寝不足だったけれど一日気分が良かった
今までよりもずっと彼女に近づけた気がしたから
そのことがとても嬉しくて
その日一日はずっと浮かれていたような気がした
学校から帰ってくると、
家の前で母が立っていた
空が焼ける夕暮れ時だったから
いつものように庭に水を撒いているのかと思って
母に向かって駆け出した
けれど、その途中で母がじっとこちらを見ているのに気付いて
私は駆け寄る勢いを削がれてしまった
私に気付いたからこちらを見ている
ただそれだけのはずなのに
なんとなく母がこちらを見ていることがイヤだった
「なに・・・?」
家の前に立ち、私がそう母に尋ねると
母は何も言わず、玄関へと歩いていった
私は何も言えず、ただ母の後をついていった
玄関に入ると、
いつものように迎えに出てきた彼の姿と
玄関に寝転ぶナナの姿があった
「お隣の人が教えてくれたの」
母は静かにそう言った
寝転んだナナは少しだけ目を開いたままだった
手足を少し伸ばした姿は、伸びをしているかのようにも見えたけれど
それはどこか違っていた
ふと、家の前に何かの跡があったことを思い出した
「家の前の角を曲がってきた時で見えなかったんじゃないかって」
母が続けて何かを語りかけていたが
そのほとんどが私の耳には届いていないことに気付いたのは
それからしばらくしてのことだった
そこにいるナナは、昨日私の膝の上で眠っていたナナの温もりを感じなかった
私は玄関に膝をつき、ナナをゆっくりと抱き上げた
抱き上げたナナの体は強張っていた
倒れたままだったからか、
右半身はまるで寝癖のように少しぺたっとした感触だった
ブラウンの毛が少し赤黒くなってしまっていた
陽の光を受ければ綺麗に透けて綺麗な毛が
今は薄暗くなってしまっている
「多分、家の庭の裏をぐるっと回って外に出たんだと思う」
「・・・そう」
母の言葉に、私はようやくそれだけを返すことが出来た
不思議と、涙は流れなかった
その日、家の誰もがほとんど口を開くことはなかった
家族の誰もがナナを抱きしめたが
家族の誰もが涙を流すことはなかった
悲しみが大きすぎると、心とともに涙も凍るのだと
そう思った
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彼女がいなくなった翌週
庭とガレージの間に大きな柵が置いてある事に気付いた
ある事に気が付いて
庭をぐるりと一周しようとすると
やはり庭の裏手にも同じように柵が置いてあった
「お父さんが置いたの」
そのことを尋ねた私に、母はそう答えた
それが、父なりの彼女への思いだったのだろう
私は、「そう」とそっけなく返すと、
もう一度柵を眺めた
その柵は彼女への思いが流れ出ていくことを止めるための柵なんだろうか
根拠もなく、ただそう思った
誰もが、彼女を失ったことへの喪失感を抱いているのだということは
しばらくしてから分かった
父が立てた柵もその一つだったし
妹も妹なりの方法で、失ったものの代わりを手に入れようとした
私は始め、妹のその考え方に嫌悪を覚えたが
妹の望みの裏には失ったことに対する悲しみがあることが分かっていたから
何も言うことが出来なかった
そうして私は、
いつからかいつも自分が一歩引いている事に気付いた
それが失うことの恐れからくるものだと気付くまで
それほど時間はかからなかった
けれど、私は気にしなかった
それは、彼女が確かにいた証なのだと
今でも私の中に彼女がいる証なのだと
そう思えたから・・・
ここにいるよ
私は・・・ここに、いる




