098吟遊詩人の弟子
その日、エルシィの午後はと言えば、バレッタと一緒に農林水産関係を担当する部署である、水司の会議に出席した。
旧ハイラス伯国の統治者となったエルシィは、いわば森羅万象担当大臣なのだ。
すなわち、それぞれの専門部課の動向を把握しなければならないし、大方針を決めるのもまたエルシィのお仕事なのである。
ゆえに、エルシィの日々の行程と言えばだいたい詰まっている。
午前はなだれ来る執務を片付け、午後は各部署の視察や会合、はたまた政府関係ではない要人との折衝、面会などなどである。
その日は午後いちで吟遊詩人の元締めであるユリウスさんと面会し、その後に港へとウキウキ出かけて行った。
お仕事は当然真面目にこなすが、それはそれとして美味しい海産物はエルシィの心の支えなのだ。
そうして水司とのお仕事も終えお供を引き連れて主城へ戻って来たのは、もうすっかり暗くなりかけた時間だった。
季節は夏になりかけている蘭の月。
この時期に暗くなる時間と言えば、早い者ならもう夕の食事を済ませているような時間である。
「とほー、もうお腹ペコペコですよぅ」
ほとんど目を閉じているような状態でバレッタに背を押されながら主城天守へ入ったエルシィは、すっかり気を抜いてそうのたまった。
お供の一人……神孫の片割れアベルは、己の主人をの姿を見てため息を吐く。
「お姫さん、昼にあれだけ食べたじゃないか」
「お昼なんてもう六時間も前じゃないですか! 人間は朝食べても夜にはお腹がすく難儀な生き物だってよく言いますしおすし食べたい」
「だから食べたの昼だろう……」
「ふふふんふん。はてさて、今日のお夕飯はなんでしょう」
鼻歌交じりにそんなことを言うエルシィとそのお腹を交互に見て、アベルは驚愕に目を見開くのだった。
お昼、エルシィは視察と称して、漁師の行きつけである定食屋に闖入し、そこで文字通り鱈腹になるまで海の幸を堪能した。
キャリナが引き止めるのを振り切り、である。
本日のお供衆だったアベルやバレッタも同様に食べさせられたので、未だに消化しきれておらず、夕飯の想像をする発想が出ない。
なので、自分たちより身体が小さいエルシィが、なぜそんなに食べるのか不思議でしょうがなかった。
一度執務室に戻り、続きになっている衣裳部屋で訪問着から着替えたエルシィは、すぐにでも食堂へと突入する勢いだった。
が、侍女の一人である目立たない灰色髪の少女グーニーがこれを引き止める。
キャリナがエルシィと共に出かける時は、グーニーが主城で留守居役を務めるのだ。
ともかく、そのグーニーに引き止められ、エルシィはギギギと音が鳴りそうなぎこちない固まった笑顔で振り返る。
「我が食事を妨げる者に災いあれ」とでも聞こえてきそうな、訴えのありそうな笑顔である。
「なんでしょうか、グーニー」
呪いの言葉を何とか飲み込みエルシィが訊ねれば、グーニーは優雅にお辞儀をしてからその要件を口にする。
「エルシィ様がお出かけになられたしばらく後にお客様がいらっしゃいました。
お待ちする、とのことだったので、そのままになっていますが……どうなさいますか?」
初め、客と聞いて首を傾げたエルシィだ。
エルシィと面会がしたいという客は、もうひっきりなしで主城へとやって来る。
この土地を治める最上位の人物がエルシィなのだから、これは当然だ。
だが、そんなお客さますべてと面会していたら、エルシィの時間はとてもじゃないけど足りないのだ。
であるから、まず各担当部署などに振り分けられ、その上でどうしてもエルシィでないと判断できなかった場合などにようやく面会の予定が組まれる。
ところが今日のお客さまはそうされず、直接主城で待っているという。
つまりこれは、あらかじめ何かしらの約束があったということになる。
「あ、もしかしてユリウスさんのお弟子さん?」
「ご名答でございます。さすがエルシィ様」
そう、午後いちで謁見した吟遊詩人のユリウスが「弟子をよこす」と言っていたのを思い出した。
あの時のユリウスの様子が好意的でなかったので、まさかこんなにすぐ来るとは思っていなかったのだ。
むむむ、ならば会わねばなるまいて。
と、エルシィは食堂に心を引っ張られつつも、職務を優先しようと考え途端に身体が重くなった気がする。
「そうだ、良いこと考えました!
お客さまも夕食へご招待しましょう」」
だが、そこでまたパッと明るい笑顔で手を叩いた。
キャリナ辺りは「また余計なこと……」と目元を手のひらで覆ってため息を吐いた。
という訳でお客さまを食卓へ呼ぶ為に使いを出し、エルシィ一行はそのまま食堂へと入った。
ここで席に着くのはエルシィとその家族くらいで、側仕え衆は控えて待つのが普通である。
が、当然の顔をして主人席にいるエルシィの左右翼に着くのは神孫の姉弟バレッタとアベルだ。
これは、ハイラス鎮守府総督として赴任することになったエルシィのわがままで、初日からずっとこの布陣なのである。
曰く「大勢で食べた方が美味しいし楽しいじゃないですか」である。
一応、キャリナから常識を説かれ諭されたが、いろいろ協議を重ねた結果、バレッタとアベルは特別な家臣であることから同席を許すこととなった。
なので食卓に着くのは三人。
席に着いたアベルに代わり、午後非番だったフレヤが着く。
アベルは築司に出向していたが、あちらはそれほど問題がなかったようで早々に戻り、最近ではフレヤ共に近衛の仕事をしているのだ。
「お、お招きいただき、ままま誠にありがとうございます。
ユリウス様の弟子、ユスティーナと申します」
さて、エルシィと神孫の姉弟がテーブルに着いて待つ食堂へやってきて、いかにも緊張した様子でペコペコ頭を下げるお客さま。
それはダークブラウンの前髪で目を半分隠したような、オドオドとした男の子だった。
「……あれ、男の子だよね?」
「たぶん?」
思わずエルシィが左側の席に着くバレッタに訊くくらい、きれいな子供だった。
それにエルシィがそう思ったのは、何も容姿のことだけじゃない。
彼が名乗った「ユスティーナ」という名前は、北欧辺りでは女の子の名前なのだ。
「つまり、男の娘、ということですね?」
そんなエルシィのつぶやきに、アベルは頭痛を覚えたようにコメカミをおさえながら頭を振った。
「何を言ってるのか、ちっともわからない」
ユスティーナくんとの面会の話になる予定だったのに、会っただけで終わってしまいましたな?
次回は来週の火曜日です