095お疲れのエルシィ様
さて、エルシィが「コズールに会いましょう」と言った日から少し遡る。
どれくらい遡るかと言うと、エルシィがこの土地の執政者として着任した数日後あたりだろうか。
それは、この土地の為政者だったヴァイセル伯がやらず残していった、面倒な行政上の手続き仕事をようやく片付け終えたころである。
「それで童よ。お主、何から始めるんじゃ?」
傍からは「ハンコ押すだけの簡単な仕事」に見えるエルシィの執務机で、相変わらずぴょんこぴょんこしている生意気かわいい小さなウサギがそう訊ねた。
椅子の背もたれに大きく身を任せて魂の抜けそうな顔で「あー」と唸っていたエルシィは、この問いでようやく考えをめぐらす脳の機構を再起動させる。
小さなウサギ、イナバ翁神の質問に答えようと背もたれから身を起こし、そして口を開いた。
「ぷしゅるるぅ」
だが、出たのは空気と間が抜ける妙な風切音で、エルシィはそのまま執務机に突っ伏すのだった。
「なんじゃお主。大丈夫か?」
「……大丈夫ナイですぇ」
考えはすでにある。
だが、それを形にして人に伝えるという作業は案外とエネルギーを要する。
つまりエルシィの脳は、現在、絶賛エネルギー切れ中であった。
トントン
と、そこへノックが聞こえ、エルシィは突っ伏したままに力のない声で「どうぞぉ」と呟く。
そのか細い声が聞こえたのか不安になる程度の時間が過ぎた後に、執務室のドアは開いた。
やって来たのはエルシィの筆頭侍女であるキャリナ嬢と、もう一人のメイドだった。
静々と入って来たキャリナの後に続くメイドは、ともすればエルシィと同い年くらいだろう小さな少女である。
「エルシィ様、お茶をお運びいたしました。一服なさいませ」
「おやつもお持ちしましたにゃ」
キャリナの後に続いてサービスワゴンを押す少女の言葉に、つい耳を疑う人もいるだろう。
だが驚くべきは語尾だけではない。
黒髪に少しばかり浅黒い肌のその少女は、奇異なことにねこ耳とねこ尻尾を付けているのだった。
これは別に飾りだとか宗教的な儀礼だとかそういうものではない。
彼女はこのハイラスの土地の端にある山脈に住まう、「草原の妖精」の一族なのである。
「草原の妖精」なのに山に住んでいるのか?
などと疑問に思う人もいるだろうから少しだけ触れておくと、つまり彼女の一族は長い歴史の中で人間どもに草原から追いやられたのだった。
そんな迫害の歴史を持つ一族ではあるが、今では偏見や差別も殆どなくなり、こうして人の街へ働きに出てくる者も少なくない。
この少女、カエデもその一人であり、迂遠な紹介経路を通ってキャリナの助手の様な仕事をするお役目に着いたのであった。
「ありがとー、ちょうど甘いものが欲しかったのですー」
「どういたしまして……ですがエルシィ様、語尾を伸ばすのはお行儀が悪いですよ」
ワゴンの上のお菓子に目を奪われほにゃっと相貌を崩したエルシィがお礼を言うが、そこにぴしゃりとお小言が飛んで来た。
キャリナは侍女ではあるが、こうしたお行儀の教育係でもあるのだ。
反射でピシッとするエルシィだが、それでもやはりカロリーが足りていない。
すぐさまヘナヘナっと机の上に頬をつける。
「てろーん」
キャリナは「仕方ないですね」という顔でひとつため息を吐くと、慣れた手つきでティーポットを用意し始めた。
メイドがいても、主人のお茶を淹れるのは一番の側近がやるべき仕事なのである。
よく蒸らしたハーブの葉に程よい温度の湯を注ぐ。
すると清涼感のあるホッとする香りが執務室を包み込む。
しばし湯が色づくのを待ってから、キャリナは主人用のカップにお茶へと変貌した暖かい湯を注いだ。
そして、続いて薄茶色のザラザラした粉をカップへと射し入れかき混ぜる。
この粉に、エルシィがピンと反応した。
「キャリナ! そ、そ、それはもしや……」
「ふふふ、お気づきになりましたか。砂糖です。
昨日、グラキナ子爵国から届いたものですよ」
「おお!」
エルシィが歓喜の声を上げた。
この世界で砂糖は貴重品である。
製法が秘匿されているというのもあるが、そもそもその製造にとても手間暇がかかる砂糖は、工業化されていないこの世界においては少量が流通するごく一部の裕福層の嗜好品なのである。
代替え品としては甘葛や麦芽水あめ、蜂蜜などがあるが、砂糖には劣るもののやはりどれも高級品ではある。
「はー、やはり砂糖はひと味違いますねぇ。
疲れた身体に染み渡る……」
砂糖入りのハーブ茶を一口飲んで、エルシィがほにゃっとした顔に変わった。
「こちらもどうぞにゃ」
続いてねこ耳メイドが小皿に盛った黒いかたまりを差し出す。
こちらは先にも述べた麦芽水あめを小麦粉や玉子、重曹と混ぜて焼いたクッキーの様な黒棒のような菓子である。
「わぁ! ありがとうカエデ!」
満面の笑みで受け取ったエルシィは、すぐさまこれを口に頬り込む。
途端に頬が痛くなるほどの甘さが口に広がり、エルシィは思わず頬をおさえた。
「人はええのう、美味い物を食べられるのだから」
そんな風景を眺めていたイナバ翁が呟いた。
この土地の為政者の証である印綬。
そこに宿る神であるイナバ翁はエルシィにしか見えない。
彼がどういう存在かというのは未だに詳細不明であるが、肉の身体を持つティタノヴィア神などとは違い、飲食などをすることは出来ないらしい。
なのでエルシィが美味しそうに食事をしているときは、いつも羨ましそうに眺めているのだ。
「あ、イナバ君。ごめんごめん。
何から始めるのか、って話でしたね」
「そうじゃの。
ワシの楽しみと言ったら、権利者どもがどう土地を治めていくのか眺めるくらいしか無いからのう」
少し拗ねた口調で言うイナバ翁をなだめつつ、エルシィはもう一つ麦芽水あめのクッキーを口に放り込んだ。
ちなみにこの二人の会話については、キャリナもカエデもスルーである。
初めこそ「忙しさのあまり、おかしくなったのか」と奇異の目で見たものだ。
だがエルシィに事情を聴いてからは、「こうして独り言が続く時はイナバ翁神と対話しているのだ」と理解したのだった。
キャリナは静かにお茶のお代わりを主人のカップに注ぎ、カエデはサービスワゴンの脇にそっと立つのみである。
エルシィは糖分を供給された脳を少し回して、自分の考えを口にする。
「まずやらなければならないのは……そう、情報政策ですね」
次回は金曜日に更新する予定です