091イナバ翁
「あれぇ……。ここどこ?」
目に見えていた展望室の景色が途端に移り変わったので、エルシィは目をパチクリとさせて見回した。
辺り一面、何もない。
空も地面も真っ白で、その境すら定かではない。
こうなってくると自分の立っている場所さえ、「本当は何もないのではないか」と錯覚を起こしそうになる。
だがテシテシと踏んで確かめれば、そこには間違いなく硬質な床があるようだった。
「まさか今までのが夢だったなんてオチは……さすがに無いですよねぇ」
首を傾げながら考え込む。
会社帰りに怪しい露店で買った古そうなカートリッジ式のゲームを起動し、目覚めたらこの世界で姫になっていた。
思い出せば思い出すほど「夢か?」と思う出来事だったが、ここ数か月の体験はそれが夢ではなかったと感じるに十分な出来事だった。
はずだ。
しかしこの何もかもが曖昧な白い大地に立つと、そんな認識すらあやふやになりそうだった。
エルシィはぶるっと震える自分の肩を抱いて、何とか確かなものを見つけようと、また周囲を見回した。
すると。
かすかにだか遥か向こうに点が見えた。
遠すぎて黒なのか金なのか、色すら定かではなかったそれは、まばたきの隙にすぐそばまでやって来る。
「ごきげんよう、小さな権利者よ」
それは、先ほどエルシィが触れた印綬であった。
展望室で見たそれは、もっとくすんだ色をしていたはずだったが、今そこにある印綬は磨き上げられたばかりの様にピカピカである。
その印綬が、宙にフワフワと浮いてエルシィの数歩前までやってきて、ピタリと止まった。
「無機物がしゃべったぁ?」
不思議な現象に驚き、そして「もしや幻聴だったか?」とまた首をかしげる。
「なじゃぁ。今時の若いもんは挨拶もできんのか」
そんな様子に挨拶の言葉を発した何者かが、ぶつくさ言いながらすぐに姿を現した。
それは金の印綬に鎮座する、小さな小さな白ウサギだった。
エルシィは驚きつつもハッとして、畏まって腰を折った。
「これは失礼いたしました。
わたくし、ジズ公国を治める大公家の娘。エルシィと申します。
ごきげんよう、ウサギさん?」
まずは挨拶。これ大事。
小さな白ウサギは印綬の上に二本足で立ち「まぁ良かろう」と肩をすくめて頷く。
頷き、両手を腰に当ててふんぞり返り、「うぉっほん」とわざとらしい咳ばらいを一つ出した。
「ワシのことはイナバ翁と呼ぶがよい」
「イナバ翁さん……でしたか」
ワニサメに皮はがされちゃったりするんだろうか。
ちょっと痛い想像をして、エルシィはまたぶるっと肩を震わせた。
「なんじゃ、ワシが怖いか。ふふふ……」
白ウサギは、なんだかちょっと気を良くしたように胸を張るが、どう見ても怖くはない。
むしろカワイいまである。
エルシィはあまり少女趣味ではないが、それでもなんだがギュッとしたくなる衝動にかられた。
「な、なんじゃい。息を荒くするな!」
……逆に怖がられてしまったようである。
ともかく、自分の存在すらあやふやになりそうな真っ白な場所で、イナバ翁の存在は確かな存在感を得るきっかけとなった。
ある意味、恩人ともいえるだろう。
エルシィはほぅ、と肩の力を抜いて改めて周囲を見回す。
「それでイナバ翁さん。ここはなんなのです?」
呆れるほどになにもない。
仕事に疲れたサラリーマンなら、あるいは安らぎを感じるかも知れないなぁ。
などと妙な感想を思い浮かべながら問いかけてみる。
イナバ翁はまた偉そうに胸を張った。
「ここはワシの権能が作った閉鎖空間じゃ」
「閉鎖……空間?」
「うむ。
つまりな、お主がおった世界から隔離された、仮初の異世界とでも言おうかの」
「ははぁ……?」
解った様な解らないような。
とにかく、見た目の感じから、エルシィは個人的に「精神と時の部屋」と呼ぶことにした。
「それで、イナバ翁さんが作られた精神と……いえ、閉鎖空間に、なぜわたくしは閉じ込められたのです?」
「閉じ込めたとは人聞きの悪い。
お主が条件を満たしたからここへ呼ばれただけじゃ」
「条件……」
全く心当たりのないエルシィだった。
……いや、イナバ翁が載っている金の印綬を見て思い当たった。
「ハイラス伯国の国璽に触れたから、です?」
「うむ。ハイラス……何とかは知らんが、その印綬に触れたからじゃな」
なんとなく解ってきたが、それはそれでおかしい。とエルシィはアゴに手を人差し指を当てて首を傾げた。
ジズ公国でも国璽には触れたことがある。
だが、あの時はこのようなことはなかった。
そうして不思議そうにしているエルシィに見かねてか、イナバ翁は続けて口を開く。
「そうさの。
もう少し言うなら、条件を満たした時、条件を満たしたお主が触れたから。ということになるのう」
なるほど。と、エルシィは手を叩く。
つまりフラグが立っていたところにノコノコやって来たからこのありさまなのだ。
「ふむー。それで、そのフラグとは?」
「フラグってなんじゃい……。
ま、つまりの。管理放棄された印綬に、管理継承権利を持つ者。つまりお主が触れたのが原因じゃな」
「ははぁ」
ようやく納得である。
つまり、伯爵ご一家が逃げたからこうなったのだ。
管理継承権利というのがどういった物かはわからないが、きっと大公家の血を引くエルシィだからその権利を有しているということなのだろう。
誠にビックリである。
つまりこの印綬は、ただ単に旧レビア王国から与えられた「土地を治める者が持つシンボル」ではなく、何らかの力を持つアイテムという可能性もあるわけだ。
エルシィが持つ、元帥杖の様に。
すると、である。
「もしかしてイナバ翁さんて、神様です?」
「とんでもねぇ、ワシャ神様だ?」
懐かしいコントを思い出しつつも、心で「どっちなのさ」と突っ込むエルシィであった。
あれ? 今年中にこの章は終わるかと思ってたけど、大丈夫かな?
……まぁあと4回もあれば(フラグ)
次回は来週の火曜日です