085女神の神託
さて、上陸を前にして少しだけ時間をさかのぼり、ハイラス伯国の様子を語ろう。
エルシィたちを乗せた船がハイラス伯国領都の港沖に着き、曳航船を求める船と簡単な報告を乗せた船を送ってしばらくした頃の話である。
その頃、港から少し離れた丘の上にあるハイラス主城の執務室に、そろそろ三〇歳に手が届こうという遊び人風の男がいた。
彼の名はヴェイセル。
この度、新たにハイラス伯国の国主となった男である。
すなわち、新伯爵陛下ということだ。
ヴェイセルは、普段ならヘラっとした気楽な顔いっぱいに渋面を張り付け、ぶちぶちとつぶやきを挟みながら紙束をめくる。
「国主がこんなに忙しいとは思いもしなかったぞ。
まったく、父上ももう少し長く生きてくれれば、俺がこんな苦労せずとも……」
この紙束は各部署から上げられてくる、決裁書や報告書である。
ジズ公国のカスペル殿下と違い彼は見た目通りの遊び人で、これまであまり国政に携わってこなかった。
爵位の継嗣だったにもかかわらず、うっとおしくも真面目な他の親族から逃げ回りながら遊び歩いていたのだ。
ゆえに、今彼が苦労しているのも半分は自業自得と言えるだろう。
初めて行う執務ならば、手間取って当然なのだ。
ただ、彼の名誉の為に言うならば、もう半分は仕方がないと言える。
実際のところ、国主という仕事はとても忙しいのだ。
なにせ国のトップなのだから、国のあらゆる動きについて決裁を求められ、そして結果を報告される。
時には重要な政策を考えなければならないし、その実行の為に指揮を執ったり、または任せる人物を選定しなければならない。
それに執務ばかりやってるわけにもいかない。
昼は閣僚や国内様々な有力者と会合して様々な取り決めや合意をしていかなければならない。
会食などもその一つである。
庶民は偉い奴らの会食など、税金を無駄に使う贅沢だ。などと思っているが、偉い連中からすれば食事の間さえ仕事なのである。
このあたりは「別に会議室でやればいいだろう」という向きもあるだろうが、偉い人も食べなきゃ生きていけない。
スケジュールが詰まっている以上、食事の時間も会合に当てる必要が出てくるのだ。
とは言え、安い市井の定食を採りながらの会合では、会った相手が「ワシはあまり重要視されとらんのだな」と思ってしまう。
ゆえに折衝には豪華な食事も必要ということになるのだ。
まぁ仕事漬けなのだから、それくらいのご褒美は……。
などと思ってはいけない。
御馳走責めというのは、それはそれで辛いものがある。
我ら日本の庶民で例えるなら、名古屋式喫茶店でがっつり朝食、昼は焼肉の食べ放題、そして夕食は回転すしでメニューの端から持ってこい。
という状況であろうか。
これはもう1週間くらいお茶漬けでいいよ、と言いたくなる食生活だ。
閑話休題。
さて、そういう感じで急に忙しくなったヴェイセル陛下は、まだまだ終わらない執務に頭を抱えていた訳である。
と、そこへ新たな報告を持った内司府の役人がやって来た。
ヴェイセル陛下は部課など細かく憶えていなかったが、それは水司に所属する、そこそこの役職にある者である。
水司の役人も夜までご苦労なことだが、上がいつまでも決裁を下げてくれないので仕方がない。
という訳で、ヴェイセル陛下も水司の役人も、どちらも嫌そうな顔である。
「なんだ、また新たな問題か? 少しはその方らで判断して仕事したらどうだ」
「お任せいただけるならその宣旨を下さい。
一切合切を任せる、と一筆頂けましたら、そのようにいたしましょう」
まさかそんな風に口答えされるとは思ってもいなかったので、ヴェイセル陛下はキョトンとした顔になりつつ、「それもありか?」などと考え始める。
いっそ、宰相職などを迎えてそいつに任せてしまうか。
とさえ考え始めていた。
そんな様子が見て取れるから、役人も小さくため息をついて自分の用事を済ませることにした。
「スプレンド卿の船が港沖に帰ってまいりました。
明日午前には入港し、クーネル将補は速報を届けるとのことです」
「なんだと、もう帰って来たのか?
さすがに早くとも一旬はかかると思ったが……。
そうか、なら午前中の予定を変えて待たねばならんな。
よし解った。報告御苦労」
出迎えた時は迷惑そうな顔をしていたヴェイセル陛下だったが、報告を聞いて一転明るい顔になった。
送り出したスプレンド卿が帰って来たということは、目の上のタンコブだったジズ公国の攻略が成った。
あるいはスプレンド卿が現場を離れても問題ないレベルまで進んだ、と考えてよいだろう。
これが喜ばずにいられるだろうか。
もっとも、支配領域が広がれば、それだけ彼の仕事も増えるということに考えが至っていないのが、ヴェイセル陛下の残念なところである。
水司の役人は小さく肩をすくめつつ、退出の挨拶をして早々に去って行った。
ヴェイセル陛下は「ふぅ」と一息ついてニヤ付きながら、背もたれに身を預ける。
別に戦争が好きなわけではないが、やはり味方の勝利報と言うと心躍るものだ。
そんな時だった。
彼が着く黒檀の机の前に、キラキラとした光の粉が舞い始めた。
その光の燐粉はしばらく舞っていたかと思うと、次第に人の形を取り始め、最終的には美しい女性の姿に代わっていった。
「おお、これは女神様ではありませんか!」
驚きと喜びにヴェイセル陛下は声を上げる。
「ご神託を頂いたおかげで我が国の領土が何百年かぶりに増えました。
この御礼はいかように……」
だが、そんな様子のヴェイセル陛下を、現れた女は厳しい表情で押しとどめる。
これにはヴェイセル陛下も怪訝そうに眉をひそめた。
「どうされましたか女神様?」
この『女神』、葬儀の為にジズ公国からヨルディス陛下たちがやって来た直後に、ヴェイセル陛下の元へ姿を現した。
そしてジズ公国に攻め入るのは今である、と『ご神託』を告げたのである。
そのご神託には、攻め入るべき根拠。
例えば現状のジズ公国の兵力であるとか、国力と言った情報も添えられており、ヴェイセル陛下にとっては看過しえないものであった。
であるからこそ、彼は急遽、ヨルディス陛下と近衛士、そして随行の騎士たちを拘束し、出兵に踏み切ったのである。
その神託の女神が厳しい顔でそこにいるのだ。
スプレンド卿帰還の報から一転、ヴェイセル陛下の心には不安な影が差し混んだ。
「ヴァイセル……、あなたが送り込んだ兵は敗北しました」
端的に述べられたその言葉で、ヴェイセル陛下の心臓は止まるかのごとく跳ね上がった。
そんなバカな。
敵の倍以上の兵力を送り込んだのだ。
しかも奇襲である。
それで負けただと?
ヴェイセル陛下の脳裏に、次々と「なぜ?」という疑問ばかりが浮かんでくる。
だが女神はそこに追い打ちをかけるように言葉をつづけた。
「ヴェイセル、解っていますか?
負けた兵が『負けた』という報を伝えずに帰って来るのです。
これがどういうことか……」
聞いて、ヴェイセル陛下はハッとした。
ジズ公国の反攻か?
そんな、まさか……。
この期に及んで、すぐ迎撃に考えが及ばぬヴェイセル陛下の様子に、女神は大きなため息を吐く。
そして彼が自分の考えに没頭しているうちに、「もう用は済んだ」とばかりに女神アルディスタはその身をかき消したのだった。
あれ? また上陸まで行けなかったぞ?
次こそは上陸します。たぶん、きっと、めいびー……
次回更新は来週の火曜です