082ヒレの種族
船外の、つまり海に胸から上だけをプカプカさせた少女たちと目が合い数秒が経過する。
ともかく今は、双方「紹介したい」と言い出したバレッタが話し出すのを待っている状態である。
だが、バレッタはエルシィをここに案内しただけで、すでに仕事を終えたような顔になって手を腰に当て行く末を見守る体勢だ。
あれ、これわたくしが声かけないといけない流れ?
と、少しの動揺を抱えながらエルシィが小さく咳ばらいをし掛けた時だった。
海上で、何かが跳ねたようなポチャンという音が立つ。
波の音、船が進む波切音、それら以外に何もない海上に、その小さな音はなぜか響いた。
そしてその音を立てた張本人に、エルシィは目をまん丸にして驚いた。
音の正体。それは少女たちの一人の下半身に付いた魚の様な尾が、水面を軽く叩いた音であった。
え? 下半身? 魚?
瞬間、エルシィの思考が乱れる。
その少女たちは、上半身が人間、下半身が魚という、つまりは人魚であったのだ。
当然ながら人魚なんて初めて見たエルシィは、はじめ声を上げそうになり慌てて口をふさぐ。
そしてこそっとした仕草で周囲を見回した。
自分は見るの初めてだけど、もしかしたらこの世界ではありふれた相手なのかも?
という懸念からの行動だ。
だがそれは杞憂だったようで、キャリナを始めとした側仕え衆も船員も、等しく驚きの顔を浮かべていた。
回りがみんな驚いているのを確認したので、むしろエルシィは落ち着いた。
落ち着いて、ではなぜバレッタは人魚さんたちを紹介しようとしたのだろう?
と、疑問を巡らせ首を傾げた。
「バレッタ?」
考えたってしょうがないので、エルシィはそのままくりっと視線を当の少女へと向けてみる。
気づいてバレッタはにぱっと笑顔を浮かべるのだった。
浮かべるが、無言のままだった。
「あ、あの……!」
そんな無言のやり取りにしびれを切らしたのか、人魚さんの一人がずいと身を乗り出して来た。
とは言え、大きな船の上にいるエルシィたちとでは、それなりに距離がある。
ゆえに数人の少女の中から前に出て来た、というのが正しいかもしれない。
ともかく、その少女の呼びかけに気づいて、エルシィは船縁から身を乗り出して返事をした。
「はいはい、なんでしょう?」
姫様が落っこちないようにと、あわてて出て来たヘイナルとフレヤに支えられながら、エルシィは落ち着いて状況を確認する。
海面に浮かぶ五人の少女。
全員がおそらく人魚さんだろう。
どれもまだ幼い顔だが美人ぞろいである。
そしてその周囲にはイルカたち。
これはバレッタの友人である白イルカのホワイティが連れて来た友人たちである。
彼らには先日、エルシィも大いに遊んでいただいたのですでに知らない仲ではない。
なぜか知らないけど、今回の航海でも随行してきている。
そして船上にはキャリナ、ヘイナル、フレヤ、そしてバレッタとアベルの双子姉弟がいる。
他にも船員たちが野次馬として集まっているが、まぁこれは勘定に入れなくていいだろう。
そうしてぐるりと一通り確認しているうちに、はじめに声をかけて来た少女が意を決したように続きを口にした。
「あの、あなたが人間のお姫様……なんですね?」
それ以外の何に見えます?
と反射的に考えたが、よく見れば今の格好は動きやすいようにと運動用の乗馬服姿だったし、近衛士たちに支えられながら船縁から身を乗り出している状態だ。
ふむ、確かに姫っぽくないかな?
などと思い直して、少しだけ姿勢を正した。
姫っぽく、がテーマなので、幾らか高飛車感を出しつつ背筋を伸ばす。
うーん、やっぱり羽の扇子が欲しいところですね。
などと考えながら言葉を返す。
「ええ、わたくしがジズ大公家の娘、エルシィです。
あなた方は?」
あわてて、人魚さんの方も姿勢を正して答える。
「は、はい。私たちはこの海峡を治めるネプティーナ様に仕える人魚です」
海峡を、治める?
エルシィは疑問に思い、クレタ先生から習った近隣国のことを思い出す。
だが、現状では各国ともに領海という概念すらあやふやなようで、「海峡を治める」という話は出なかったように記憶する。
「これはどういうことです?」
なのでエルシィはすぐ近くにいた側仕え衆に小声で疑問を投げかけてみる。
が、どの顔も困惑気味だ。
「ケントルム海峡を治める国、家、はたまた人物がいるという話は聞いたことありませんね」
「もしや海賊の類……」
キャリナが首を傾げ、ヘイナルが警戒に眉をひそめると、それまでニコニコと見ていただけのバレッタも口を開く。
「あたしも人魚には初めて会ったわ」
え、バレッタの友達でも無いの?
エルシィはちょっとビックリして目を見開いたが、まぁなんか最近バレッタの適当さを理解して来たのですぐに気を取り直す。
「えっとえっと、海峡を治める、というのはどういうことです?」
ともかく疑問から解消するのが良いだろう。
エルシィはもうぶっちゃけて聞いてみることにした。
人魚たちもこの質問には面食らったようで、しばしごそごそと頭を寄せ合い相談し、また代表にさっきの少女が進み出た。
「どうやら認識に齟齬があるようですね。
えーと、脚の種族たちが陸に国を造るのと同じに、私たちヒレの種族は海や沼、湖に国を造ります。
その、私たちの国が、この海峡にあるのです」
なーるほど。
エルシィは感心気にゆっくりと頷き、そして目を輝かせた。
人魚の国、それは面白そうだ、と。
いやヒレの種族と言ったので、人魚さんだけじゃなくて他にもいろいろいるかも知れないですね。
えーとえーと。
と考え、自分の知識の浅さに少々落ち込んだ。
海にいそうな人間以外の知的生物に思い当たらなかったからだ。
いや、イカも賢いって知ってるけど、あれは知的生物ではないよね?
とかなんとか。
「それで、ですね?」
何やらすでに納得顔でうんうん言っているエルシィだったが、人魚さんたちは何か用事があるらしく、おずおずと話しかけて来る。
「あの、私たち、イルカさんにお手伝いをお願いしようと思ってきたのですけど……」
ふむふむ。それでここに来たわけですね。
昨日バレッタに聞いた話だと、この近海にいる若いイルカさんはおおよそここに集まっているらしい。
遊び好きなので、みんな新しい友達に興味津々なのだとか。
ともかく、だからイルカさんに用があったらここに来ちゃったということなのだろう。
「ふむふむ、それで?」
ただ、なにやら歯切れが悪い様子だったので、後押しするようなつもりで合いの手を入れてみる。
人魚の少女はエルシィが友好的な様子なのでホッとして続きを口にした。
「イルカさんたちが『ボクたち今日はお姫ちゃんの子分なので、お願いならお姫ちゃんに言って』と……」
「……はい?」
エルシィの思考は数秒停止したのだった。
次回は金曜更新の予定です