008城内探検に出発(前)
朝起きると、昨晩の疲れ果てて重かった身体が嘘のように軽やかだった。
「気分爽快。おはようございます! 若いって素晴らしい!」
エルシィはつい気分良くなってベッドから飛び起きて立ち上がる。
「何をやっておいでですか姫様」
「サタデーナイトフィーバーのポーズ」
と、侍女キャリナがいつの間にか背後まで歩み寄っていて、さっと足を払われ倒された。
「きゃふん」
仰向けに沈んだ先はベッドなので特に痛みはなかったが、それでも小さな悲鳴を立てずにはいられない衝撃がある。
エルシィは少々恨みがましい目をキャリナに向けながら半身を起こした。
「なにをするのです!」
「姫様、ベッドの上に立つのはお行儀が悪いです」
「……おっしゃる通りでございます」
お説御尤もだったので、エルシィは素直にベッド上で土下座した。
そんな様子にキャリナは小さく溜息をつく。
二日目にして、躾については少し諦めが入って来たようだ。
それはともかく、必要なことは言わねばならない。と意をくくって口を開いた。
「姫様、朝は側仕えが来るまで起きてはなりません」
「なぜです?」
キャリナの言葉に、すぐコテンと首を傾げる。
解らないことはすぐ訊ねる。疑問をそのままにしてはならない。
ある程度この世界について理解が進んだならともかく、今の状況では致命的な失敗につながりかねない。
エルシィからすればそんな真剣な思いからの行動だった。
だがこの世界の生粋の住人であるキャリナからすれば「そこから?」と思わざるを得なかった。
「側仕えは主の起床時間に合わせて準備しています。姫様がそれより先に起きるなら、明日から側仕えたちはさらに早く準備をしなければなりません」
そんな説明に、エルシィは「ははぁ」と納得して頷いた。
そう言えば、と思い出す。
務めていた会社でも、一時期、始業二時間前出勤が問題になったことがあった。
出勤時間と言うのは電車などの交通機関の時刻表、自動車通勤者などは渋滞模様、他にも自宅の遠近によって皆まちまちで、早い者で三〇分前、遅い者で始業ギリギリと言う感じだった。
そしてある年、意欲ある新入社員がやってきて、新人なのだから誰よりも早く出勤しようと張り切った。
ところがだ。
新入社員に会社のカギを預ける訳にはいかないので、その新人の入った部課の長が、その新人より早く来ることになった。
それを見た新入社員は「しまった、もっと早く来なければ」と思ったらしい。
こうなればもうイタチごっこだ。
最終的には総務部から待ったがかかり、全社員に対して注意が入ったという顛末である。
「なるほど。了解であります」
そんな身に染みる教訓を知っているので、エルシィはピシっと右手を額に当てる敬礼をしながら素直に返答した。
「姫様、言葉使い」
「これからは気を付けますわ」
言われ、素直に改め、お嬢様ぶって返事してみた。
まだ何か言いたそうなキャリナだったが、また一つ溜息を吐いて首を振った。
いかん、このままでは溜息吐きすぎてキャリナの幸せ残量がなくなってしまう、と危機感を覚え、エルシィはなるべく気を付けよう、と改めて心に誓った。
「姫様、今朝お食事はどうなされますか?」
そんな姫の決意を知ってか知らずか、キャリナは自分の仕事に忠実に話を進める。
彼女は侍女なので、エルシィの生活の世話こそが仕事なのだ。
「食べます……?」
ただ、何を聞かれているのかわからず、エルシィはまたもコテンと首を傾げた。
「いえ、ここで召しあがるのか、食堂で召しあがるのか、姫様の体調をお聞きしているのですよ」
「おお」
エルシィは納得して手をポンと叩き、右手をピシッと上げて堂々と答えた。
「食堂へ行くマス!」
エルシィの決意が、カラカラと空回る音が聞こえるかのようであった。
キャリナに着替えさせられ朝の身支度を終えたら、二人は部屋を出る。
出ると、扉の外には昨日とは違う近衛士が立っていた。
「おはようございますエルシィ様」
柔らかい声で挨拶を投げかけてくるのは、ふんわりとした雰囲気の、十代半ばくらいの少女だ。
「ごきげんよう」
まだ知らない人だが、たぶん昨日話だけ聞いたもう一人の近衛士フレヤさんだろう。
そう納得してエルシィは昔読んだお嬢様小説で交わされていた挨拶を返してみる。
ニコリと微笑みかけるついでに顔を見上げると、声のイメージ通り、おっとりとした感じの人だった。
こういうのを狸顔美人と言うのかな?
などと考えながら、ヘイナルから聞いた情報を思い出す。
確か「剣の腕は若い割に立つが、少し考えが足りないところがある」と評されていた。
きっとおっとりさんでボンヤリしちゃうんだろう、などと勝手に想像して頷いた。
「ヘイナルは?」
「今日は私が朝番なのです。じきに来ますよ」
エルシィがフレヤの容姿と情報をすり合わせている間、側仕え同士でもまた情報のすり合わせが行われる。
主に本日の勤務状況などだ。
それらを手早く終わらせると、キャリナを先頭に三人は食堂へと向かった。
食堂ではまた殿下と楽しいお食事だ。
エルシィは昨日の緊張が嘘のように気楽になっていた。
元々、丈二だった頃からあまり物事を気に病む性格ではなく、何か重大な悩みがあっても一晩寝ると「まぁ良いか」と流してしまう質だった。
それゆえ、「中身が偽物だとバレたらどうしよう」などと言う悩み、「本当はあなたの妹ではありません」と言う重大事を黙っている罪悪感は、一晩でスッカリ消え失せていたのだ。
ある意味、エルシィの良いところであり、また人格的欠陥であった。
「今日はこれから何をするんだい?」
食事中の世間話で、カスペル殿下がふと訊ねる。
彼の人当りも昨日よりさらに柔らかくなったように感じるのは、エルシィの心境のせいか、はたまた少し仲良くなれたのか。
ともかく、エルシィは少し考えて答える。
「お城の探検をします」
ぐっと両手を握って言う妹の姿を微笑ましく眺め、カスペルは「そうか、気を付けてね」と頷いてくれた。
よっしゃ許可ゲット!
エルシィの小さなコブシが、さらにギュッと強く握られた。
食後、部屋に戻り、また着替えだ。
「別にこのままでもよろしいのでは?」
「いけません」
面倒だな、と思ったエルシィの意見はピシャリと抑えられる。
「その探検、というか城内の散策をされるのでしょう? エルシィ様の体力を考えればもう少し動きやすい服装の方が良いと思います」
「なるほど」
お姫様はお姫様でも、深窓の姫と言うか病弱の姫である。
昨日までおおよそ寝て過ごし、昼食の気疲れでダウンするようなミジンコ体力では確かに不安である。
それでもお城の探検をしたいという冒険心は抑えられないのだから、キャリナの言う通りにするのが良い。
今着ている服ではヒラヒラが多すぎるし、スカートやその下のパニエだペチコートだが重層すぎて長く歩き回るならご勘弁願いたい。
そう言えばドレスや背広と言うのはそもそも貴族の服が発祥であり、移動は馬車などを想定していて歩き回るものではない。と聞いたことがある。
スーツ姿であちこち走り回る現代のビジネスマンが、そもそも異常なのだ。
動き回るならジャージあたりが良いんじゃないかなぁ。
などと、エルシィは最終的にそんな意見にたどり着いた。
ともあれ、ジャージなどあるわけもなく、エルシィとキャリナであれやこれやと検討した結果、乗馬用の運動着に落ち着いた。
当然、エルシィは乗馬などしたことあるわけないが、探せば兄殿下の御下がり位はあるものだ。
こうしてようやく、エルシィはやっと城内散策へ出かけることができるのである。
8話目にしてやっと外(に出かける準備)
戦争はいつ始まるかって? 当分始まりません