066受諾
楼の上で指揮を執っていた青年指揮官が、まだ十代半ば程度の少女フレヤによって弑られた。
この光景がハイラス兵たちの目に、どのように映ったか。
多くの兵たちには、少女が突然楼上に現れ、唐突に討たれた。
そう見えた。
実際にフレヤはと言えば、彼らの合間を縫って進み、楼も当たり前に梯子を上ってそこへたどり着いただけである。
しかし、空から舞い降りた神々しい幼き姫君に注目していた彼らには、フレヤの登場こそ忽然と感じたのだった。
これは手品と同じ原理である。
とは言え、それを意識してそのようにしたわけではない。
フレヤにとって、そうしたやり方は得意分野ではあったが、それでも今回はどちらかと言えば偶然に近かった。
ともかく、これらの現象が彼らの心へと多大な作用を及ぼした。
空から舞い降りたエルシィ姫からの降伏勧告。
逆らい暴言を口にした指揮官の瞬殺。
ここから導き出された彼らの心情を端的に表すなら、「逆らったら殺される」であった。
だが一般の兵たちにとって、彼らの思惑は必ずしも行動に直結できない。
なぜなら、彼らはあくまで指揮官に従わなければならない組織の枠にいるからだ。
これが本国のある大陸での出来事であればまだ良かった。
逃亡、逃散という手段が取れるからだ。
国家政府という組織は確かに個人では逆らい難いが、それでも国境をいくつか超えてしまえば影響力など及ぼせなくなる。
だがここではどうか。
気づいて兵たちは軽い絶望感を覚える。
ジズ公国は島国なのだ。
この島内にいる限りすべてがジズ公国の領内であり、領外へ出るには船を使うしかない。
そうなれば、徒歩でも逃亡できる大陸国とは難易度がけた違いになるだろう。
ゆえに、彼ら兵たちは健在である上官へと視線を向けた。
それは騎兵たちであり、スプレンド卿であり、そして事の次第に動かされて後方からえっちらおっちらとやって来たちょび髭の上陸将であった。
唐突に視線を向けられた上陸将は気まずそうにフレヤの横を通って楼へと昇る。
「うぉっほん。あー、将軍閣下? ここは私がやってよろしいか?」
彼はまず、本来ならここにいないはずであるスプレンド卿へと声をかけた。
エルシィと二人の脇侍に目を奪われていたスプレンド卿は、ここで初めて兵たちの視線に気づき、肩をすくめて大きく頷いた。
「今ここにいる私はホーテン卿と戦うためにやって来た、ただ一人の騎士だ。上陸隊の指揮官は今でも君だよ」
上陸将は面倒そうに頷き返し、改めて配下の兵に、そしてその向こうにいるエルシィに目を向けた。
「あぁ、どうしてこうなっちゃったんだろうなぁ」
彼は冷や汗を垂らして、誰にも聞こえない小声でぼやく。
そもそも彼は下級官吏の家に生まれた平民であった。
緩やかな階級社会を築く旧レビア王国の社会群で平民が高い地位に就くのは、あり得ないことではないがそれでも稀なことである。
彼がスプレンド将軍の片腕として控えるような地位に就いたのは、ひとえに将軍からの抜擢によるものだ。
スプレンド将軍は、彼の危険に対する嗅覚や回避能力、そして根回しなどの調整力を買っていた。
そんな彼だから、スプレンド将軍はこの場を安心して任せられた。
上陸将は気まずそうにもう一度周囲を見回し、降臨された幼姫に向けて多くの兵がすでに膝を折っているのを確認し、そして自らも跪いて見せた。
こりゃ勝てん。
戦闘を継続したからと言って、状況が悪くなる一方だな。
そう判断したのだ。
「天の御使いたる姫君に申し立て祀ります。
我らハイラス伯国より参じた兵のすべて、姫様の元に伏して降る所存であります。
攻め入った大罪人なれど、ここはひとつ、それがしの首一つでなにとぞお許しいただければと……」
殊勝なことを言っているが、こう言っておいて「殺されることはないだろう」と彼の嗅覚が確信していた。
万が一にも勘が外れて処刑されたとしても、スプレンド卿さえ残っていれば、実家の者たちも悪いようにはしないだろう。
そういう打算があった。
「おっけーです! ではではこれにて一件落着。『フィーニス』!」
エルシィはにぱっと笑ってそう答えた。
あまりの軽いお言葉に呆気にとられもしたが、上陸将はこの賭けにまんまと勝ちおおせたのだった。
ちなみに『フィーニス』というキーワードをエルシィが唱えた途端、路地裏で石化していた遊撃兵たちも解放された。
これは元帥杖に対する命令句で、「今回の戦闘行為はすべて終了したので、状況を解除する」という意味である。
「さてさて、ホーテン卿」
「はっ」
翻って、エルシィは自軍の将たる老騎士へと目を向ける。
ホーテン卿もエルシィが元帥杖を手にしていることを理解し、上官への敬いを見せるように畏まった。
元帥とは、すべての軍人の上に立つ者の称号なのだ。
そんな事情は気にもしないように、エルシィは言葉をつづけた。
「わたくしはお城に戻りますので、この場のことはホーテン卿に任せます。
ハイラスの皆さんにはこれから役に立ってもらわなくてはなりませんので、くれぐれも無体を働くことがないようお願いしますね」
「承知。そもそも敗軍兵への虐待など武人の道理に悖りますゆえ」
ホーテン卿の言葉と、そして自軍の将兵の顔を見回してどれにも暗い加虐心に捕らわれた様子がないと判断し、エルシィは満足そうに頷いた。
「大丈夫そうですね。……では!」
そしていざ帰ろうと元帥杖を掲げようとした。
そこへ待ったをかける者が駆け込んでくる。
「エルシィ様! 城へ戻られるのでしたら私も一緒にお連れ下さい」
先ほど青年指揮官を討ち取った、エルシィの近衛フレヤだった。
ただこの言葉にエルシィは少し難色を示す。
すわ、何かご不興を買ったか?
とフレヤは少しばかり顔を蒼くした。
エルシィはそんな様子に気づいたのかどうなのか、アゴを人差し指でトントン叩きながら懸念を口にする。
「フレヤを連れて帰りたいのは山々なのですけど、この元帥杖の権能が及ぶのはわたくしの家臣だけなのですよね……」
言われ、フレヤは咄嗟にエルシィの左右に目をやる。
バレッタ、アベル。
どちらもエルシィと同い年くらいの少年少女だ。
エルシィと共に現れたことを見れば、二人が今ここで言う「家臣」なのだろう。
なんと羨ましいことか!
フレヤは以前よりエルシィを自らの主君と心の中で決めてるが、それでもジズ公国の官吏に所属する身としては、形式上はあくまでジズ公国大公陛下の家臣なのだ。
そんな自分を飛び越して、いつの間にかエルシィの直臣がそこにいる。
なんとうらやまけしからん。
フレヤの思考はひと足にすっ飛び、彼女は勢いよく諸手を挙げた。
「はい、はい! エルシィ様! 私、今すぐエルシィ様の家臣になります!」
虚空モニター越しにこの様子を見ていた大公執務室のヘイナルは、軽い眩暈に襲われて両手でお顔を覆ったという。
次回は来週の火曜を予定しております