065天より舞い降りし姫君
アベル対遊撃兵の終結を見届けたエルシィは、ポテポテと遅い歩みで虚空モニターへと寄って、その枠に手をかけた。
「じゃ、わたくしちょっと行ってまいります」
誰もが彼女の行動の意味が理解できず目を点にし、そして黙って見ていた。
「え? 行くってどこに?」
いち早く立ち直ったカスペル兄殿下が訊ねると、エルシィはにぱっと笑ってモニターの向こうを指さす。
「ええ、ちょっとあそこまで」
あまりの気軽さに誰もが「何を言ってるのか?」と訝しむ中、近衛の本能で察知したヘイナルが駆け寄った。
「ひ、姫様! 近衛を連れずに戦場へ行くなど……」
だが、彼がエルシィの元へたどり着くより早く、「よいしょ」と窓に登る様にモニターへ足をかけたエルシィは、次の瞬間、大公執務室から姿を消す。
「とう!」
そんな掛け声だけが大公執務室に残り、後の者たちはただ口を開けて見ているだけだった。
そしてそのエルシィは、戦場の空へと舞い降りる。
転移の残滓を光の燐粉のごとく纏い、ちょうど雲の合間から差し込んだ陽の先橋を背にしながら、ゆっくりとゆっくりと降臨を果たす。
最初に気づいたのは奇しくもハイラス伯国将軍スプレンド卿だった。
彼はその光景に目を奪われ、対峙するホーテン卿のことさえ忘れた。
これを不審に思ったホーテン卿が彼の視線を追って、そこで空から降り立とうとするエルシィ姫に気づく。
「姫様!」
何が何だかわからなかったが、最初にホーテン卿は心配から入った。
孫娘のように猫かわいがりしている姫君があんな高い所に。
落ちたらどうするのだ、ええいヘイナルやキャリナは何をしている!
そう慌てて周囲を見回し、少しだけ状況が理解できた。
いや、なにも理解できていないが、当の姫様が落下でどうにかなることだけは無さそうだということが解ったのだ。
見れば、エルシィはフワフワと、まるで鳥の羽の様にゆっくりと降りて来る。
ホーテン卿はホッとして、そしてなおさら眉間のしわを深くした。
「何が、どうなっておるのだ……」
ホーテン卿の疑問は次第に歩兵群や騎兵群にも広がった。
敵味方、どちらも突然現れたこの光景をポカンと口を開いて見上げる。
中には淡い光を纏ったエルシィのあまりに神々しい姿に、膝をついて祈り出す者までいた。
その筆頭が歩兵群に混ざって戦っていた近衛士フレヤ嬢である。
「ああ、我が姫様はなんと愛らしいお姿でいらっしゃる……」
どちらかと言えば多くの者が「美しい」と見とれる中、彼女だけちょっと感想が違うようだったが。
ともかく、この光景に見惚れるにしろ呆気にとられるしろ、戦場の兵たちはことごとく矛を収めた。
そんな兵たちが見守る中、バリケードとして並べられた馬車の、ひときわ高い屋根の上にエルシィは降り立つ。
「かむかむー!」
そしてエルシィは手にしていた元帥杖を高々と掲げてそう声を上げる。
「かむ……なんだって?」
何が起こるのかと傾注していた兵たちは少しだけザワザワと首をかしげたが、そんな雰囲気はすぐに消し飛んだ。
なぜなら、彼女の声に応えるように元帥杖がぴゃっと光ると、その傍らに二つの小さな人影が現れたからだ。
これもまた光の粒子を纏う幻想的な登場だ。
この二人、誰あろう、海上にいたバレッタと路地裏で遊撃隊を迎撃したアベルの双子姉弟だった。
バレッタは輸送船団の見張りという任に就いていたが、この期に及べばもう必要ないだろうと呼び出してみたのだ。
どうせ相手方の将軍さんはここにいるし、もし次官がいて動き出したとしても、すべてが入港するには相応の時間がかかるだろうから。
まぁ、ヘイナルをぶっちぎって来てしまったので、一応身辺護衛である。
これをモニター越しにでも見れば、ヘイナルも安心してくれるだろう。
戦場が静まり返りすべての視線が自分に注目したことを確認して、エルシィは小さく頷いた。
静かになるまで何分かかりました。
なんていうベタなネタはやらなくていいみたいね。
エルシィはできるだけ優しげな微笑みを浮かべようと勤めてニコリと笑い、そして朗々と口上を述べた。
「ハイラス伯国の皆さん。勝負は決しました。あなた方の負けです。
あなた方が頼りにしていた海上の本隊は上陸できませんし、遊撃の兵はすでに討ちました。
今は互角に見える戦いは、わたくしとわたくしの家臣がその手を下せばたちまちひっくり返ることでしょう。
今ならまだ間に合います。
武器を捨て、公国を犯した罪を悔い改め、わたくしの指示に従いなさい。
従わないのなら、……神の鉄槌が下ることでしょう」
幼いその口から、末端の兵まで理解できるような簡単な言葉で淡々と紡がれるその言葉に、ハイラスの兵たちはどよめき、互いに顔を見合わせ始める。
中には手にした槍と腰の差し料を早々と投げ捨て首を垂れる者もいる。
ジズ公国の兵、騎士や警士の多くはすでにエルシィの顔を見知っているが、それでも神の御業としか思えない登場に、やはり膝をついて頭を垂れた。
だが、多くの者が恭順を示そうとする中、そうでない者もいる。
現在、この侵攻軍の責任を引き受ける立場にある青年指揮官だ。
彼は自分の意のままに戦場が動かなかったことへ苛立ちを募らせていた。
そんな経緯もあり、彼は楼の上から兵たちを叱咤する。
「ええい何をやっているか! 相手はガキじゃないか、騙されるな。
一気に責め立て首級をあげよ!」
これにハイラスの兵たちは戸惑った。
ついでに言えばスプレンド卿は目を瞑って掌で顔を覆い、後方で退却準備にいそしんでいた上陸将は頭を抱えて「あの馬鹿……」とつぶやいた。
そして、特にエルシィと親しくしていた騎士たちは、青年指揮官に射殺すような視線を一斉に向けた。
「しかたありませんね……」
エルシィが笑顔に陰りをみせ、ため息交じりにそう呟いた時のことだ。
彼女が青年士官への決断を下すより早く、彼女の忠臣が動いていた。
その影は誰よりも早く兵たちの合間を縫って進み、指揮官用の楼へと這い上がり、そして青年士官の背後から短剣を首元へと当てた。
それはアベルやバレッタが家臣となるよりずっと前からエルシィに忠誠をささげると心に決めていた者。
近衛士フレヤであった。
「あなた、エルシィ様のお言葉が聞こえなかったのかしら?」
「ひっ」
それまで楼上という危険から遠い場所で指示を出すだけだった立場から、一転して死がそこへ忍んでいた。
フレヤが短剣を少し引いただけで、青年士官の首から鮮血が上がるだろう。
だが、彼は若かった。
自分の命を握る相手が、自分より年若い女だったことも、彼にとっては不運だったのだろう。
青年士官は小さな悲鳴を上げた後、カッとなって声を上げた。
「この俺に逆らうか! ガキが、ガキが ガキが! 今すぐわからせてやる!」
この聞くに堪えない恫喝に、聞こえた兵たちは失望をあらわにし、従卒は彼を見捨てて楼から飛び逃げ、そしてフレヤはため息をついた。
「そう、それがあなたの選択ですか。
では、死になさい」
言い放ち、彼を楼からつ落としつつ、共に飛び降りながら首をかき斬った。
それは彼女の愛する主君エルシィに、青年士官の無様な躯を見せないための配慮だった。
青年士官は多くの兵の目から隠されるようにして、この世を去った。
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