006お兄さま殿下
お昼を初対面のお兄さまと過ごすため、ついに部屋を出ます
侍女キャリナを先頭に、エルシィ姫、近衛士ヘイナルと続き、長い廊下を静々歩く。
「スカートが長くて歩きにくいんですけど」
エルシィは生まれた時から女子ではあるが、今身体を動かす中身はオッサンだ。
当然ながらスカートなど履いたこともない。
いや正直に言うと宴会芸の一環で女装したことはあるのだが、あの時着たのはミニスカボディコンだった。
と誰も知りたくない情報を思い出しながら、むむむと足元を睨む。
「そういう場合は手でスカートを軽くつまんでくださいませ」
「おお、なるほど」
キャリナからそういう返答を得て実践してみると、確かに少し歩きやすくなった。
が、すぐにキャリナから小さく叱咤の声が出た。
「姫様、スカート上げすぎです」
「あれ?」
言われて自分の姿を顧みる。
歩きやすい様に、と、ふんわりとしたスカートを膝辺りまで上げていたのだが、どうやらやりすぎだったらしい。
とはいえ、スカートの下はドロワーズとでも言うのだろうか、そういう下着が足首近くまで覆っているので別にいいんじゃない?
などと思ったが、後ろを歩くヘイナルは気まずそうに目を逸らしていた。
どうやらこんな下着でも、チラ見せはマズいらしい。
「おほほ、失礼しました」
エルシィはなるべく上品そうにのたまってから、そっとスカートを下した。
そうして長い廊下も終わり降り階段が見えてくる頃には、エルシィの息は上がっていた。
え、おかしくない?
と思わずにいられなかった。
なにせ「長い」と言っても、それはエルシィの歩幅感覚での話であり、距離としてはせいぜい四〇m程度だろう。
建築物内で四〇mと言えば広い部類だが、歩く距離で考えれば「たかが」と言われる程度である。
そのたかが四〇mで息が荒くなるというのだから、エルシィの貧弱さと来たら筋金入りだ。
これはちょっと気合入れて体力づくりしないといけないんじゃないだろうか。
エルシィは真剣にそう思った。
疲れが出始めているエルシィを気遣いながら、三人行列は進む。
護衛が最後尾でいいの? と訊いてみたが、近衛士が一人の時は被護衛者と全体を視界に入れられるこの位置が良いらしい。
近衛士が二人の時は、被護衛者を前後で挟むそうだ。
「ご安心ください姫様。いざと言う時は私が盾になりますから」
先頭のキャリナがそう言ってニコリと笑った時は「メイドさん、覚悟完了ですか」と冷たい汗が背中を伝った。
ちなみにエルシィはキャリナの事を「メイドさん」と考えているが、彼女は侍女でありメイドとは明確に違う。
この国でメイドとはあくまで下働きであり、あまり身分は高くない。
キャリナは大公家の姫に仕える侍女だけあり、この国ではそこそこ家格が高い家柄の子女である。
ともかく、そんな話題を交わしながら階段を降りると小ホールがあり、そのホールから繋がる扉から食堂へと入った。
一〇人程度が座ることの出来る長テーブルが設えられ、正面上座は空席で、向かって左側の席にスラリと背の高い金色の髪の少年が着座していた。
いかにも貴公子然とした少年は、歳の頃一五、六と言ったところだろうか。
おそらく近衛士ヘイナルと同じくらいの年代だ。
これがおそらくカスペル殿下だろう。
エルシィは侍女キャリナに促され、軽く一礼して入室する。
近衛士ヘイナルは扉をくぐってすぐ列から別れ、壁際で直立する。
そっと伺い見ると、他にも同じ服装の者が三名並んでいた。
兄、カスペル殿下の近衛士だ。
ヘイナルに比べるといささか歳かさに見えるが、次期国主になるカスペルの護衛だけにベテラン勢なのかもしれない。
キャリナに席を引かれて着座する。
席はカスペルの正面である。
主人の着座を確認し、キャリナは楚々と去っていく。
目で追うと、入って来た扉とは違う小さなドアから出て行った。
どこへ行くのだろう? と小首をかしげていると、正面の金髪貴公子がニコリと笑いかけてきた。
「一緒に食事できるなんて、久しぶりだねエルシィ。今日は随分顔色が良いようだ」
ドキリとした。
もちろんトキメキ方面ではなく、不安方面の高鳴りだ。
交流が少ないとはいえ兄である。
初対面の挨拶はマズい、と考えながらエルシィは一生懸命笑顔を作る。
「ごきげんよう、お兄さま。いつ振りかしら」
思い出すような素振りをしながら「知らんけど」と心でつぶやく。
不自然じゃなかろうか、との不安が常に付きまとうが、そのぎこちなさは体調の不安のせいだろう、と解釈されたようで突っ込まれなかった。
一通りニコやかな挨拶が済むと食事が運ばれてくる。
先ほどキャリナが出て行ったドアがそっと開くと、料理の乗った皿を何枚か持った男女が出てきた。
一人、女性の方はキャリナだ。
どうやら主人の給仕をするのも侍女の仕事らしい。
もう一人の物静かそうな男性はカスペル殿下の侍従だろう。
執事さんポイな。
などとエルシィは思ったが、後で聞いたら「執事とは一家の執務をまとめる使用人の長」なのだそうで、侍従とは明確に違うらしい。
まぁ、一家の若君に長く仕えた侍従が、その若君が一家を継いだ時に執事となることも多いそうなのでまったく関係ないとは言えないのだが。
ともかく、メイドの男版が執事だと思っていたエルシィは、考え違いをえらく怪訝な目で見られた。
「それにしても、今日は本当に顔色が良い。エルシィも八歳になって少しは丈夫になってきたのかな」
食事をしながら幾らかの世間話を交わした後、カスペル殿下が嬉しそうに頷きながら言う。
その表情は、本当に妹を心配していたと言う喜びが見て取れ、エルシィも嬉しくあり、また、本当は中身が違うということに少し罪悪感を覚えた。
とはいえ、エルシィとして過ごせ、というのが本物のエルシィが残した言葉なのだ。
さらにそれは女神の意思でもあるらしいので止めるわけにはいかない。
エルシィはそんな言い訳と共にほのかな罪悪感を押し流すことにした。
「ええ、女神さまのご加護なのです。これからは体調の良い時に少しずつ出歩いてみようと思います」
「そうか。それは良いね。でも程々にね」
丈夫になりつつある妹を祝福しつつ、まだ少しの心配を織り交ぜ、カスペル殿下はそう言ってから神に祈りを捧げるように印を結んで目を閉じた。
食事はそれで終了した。
来た時と同じ様に静々と歩き、三人で戻る。
そして扉前で近衛士ヘイナルと別れて部屋に入るなり、エルシィはベッドへダイブした。
「無事に終わったぁ。てろーん」
「なんですか『てろーん』って」
お行儀が悪い、とプンスカしながらも呆れた声でキャリナが問う。
「立ち上がれないくらい疲れた時の音」
枕に顔をうずめながら、エルシィはそう答える。
もちろん行き帰りの徒歩も疲れたが、それ以上に疲れたのが殿下との会話だ。
完全に初対面なのに親しくしなければならないのだから、それは気疲れしないわけがない。
会社勤めでは顔を忘れた顧客と、いかにも覚えている振りで会話することもある。
だがそれはあくまで忘れただけなので会話していれば思い出してくるものだ。
思い出すのだから後は楽になる。
だが今回の場合は完全に知らない人と、相手にはそれと気付かれない様に知っている素振りで会話しつつ、最終的には本当に兄妹とならなければならないのだ。
情報の出し入れには厳重な注意が必要だった。
そんなわけでエルシィの体力気力はすでに空欠と言えた。
「そんな風には見えませんでしたけど。まぁこれでは城内の散策など無理ですね」
「いーきーたーいー、けど、むーりー」
そう言う訳で、ロマンあふれる城内探検は後日延期と相成った。
動く気になれなかったので、夕食はまた部屋で摂った。