048社殿の暗がり
暗がりの主はさらに大きな溜息と共にしわがれた老人声で続ける。
「それにしても随分と小汚い格好ではないか。
外の浴場で身を清めて出直すがよい」
「ほらヘイナル。やっぱり温泉を先にするべきだったのです」
そんな暗がりから来た言葉の尻馬に乗るエルシィに、ヘイナルは複雑な表情で首を振った。
「私はエルシィ様を守る盾です。
今は、御身の側を離れるわけにはいきません」
ああ、さすがに一緒に入るって選択は無いわな。
ヘイナルの返事に「尤もだぁ」とエルシィは深く頷き、そして奥へと目を向けた。
「どなたか存じませんが、わたくしの側仕えが失礼いたしました。
ですがわたくしたちにも事情があります。
あなた様に関わりのあることではございませんでしょうが、なにとぞ軒先だけでもお貸しいただけないでしょうか?」
そう、貴人らしく言いまわして、泥で汚れたスカートを両方からちょこんと摘まんで軽く頭を下げた。
こんな夜中に人のいない筈の山奥社殿にいるだけでも怪しいが、同じことは自分たちにも言えるのだ。
こんな夜中に、人のいない筈の山奥社殿で子連れの青年剣士である。
同じ怪しいなら、先にいる者を尊重すべきだ。
エルシィはそう思い、畏まって振舞った。
「ふむ」
暗がりの主はこのエルシィの態度に感じるものがあったようで、しばし返事もせずに沈黙する。
「おお、その方がアルディスタの言っておった人間の姫君とやらじゃな?」
そして、しばらく黙っていたかと思えばそんなことを言い出した。
エルシィもヘイナルも互いに首を傾げながら顔を見合わせる。
見合わせ、それからエルシィは答えることにした。
「アルディスタさんというのがどなたか存じませんが、わたくしがジズ大公家の姫であることは確かです」
「そうかそうか。よう来たのう」
自分で姫というのも何だが、と困惑しながら言えば、これまで面倒そうだった声は途端に好々爺然としたものに変わるものだから、さらに困惑は深まった。
どうやらこの老人はエルシィのことを人づて聞いて知っているらしい。
「それにしてもちんまいの。いくつじゃ?」
「八歳、ですけど」
困惑しながらもなんとか答えると、老人声はほっほっほと笑い声をあげる。
「そうか八歳か。うちのところの曾々々々々……なんじゃったかの。とにかく孫と同じ齢じゃな? それにしてはちっこいの」
ちんまいちっこい連発されるものだから少しイラっと来て「ほっといてちょうだい」という気分になったが何とか堪え、エルシィはとにかく「はぁ」とだけ相槌を打った。
まぁ自分が同年代の中でも小さいのはすでに判っていたことだ。
そんなことより、今はかの老人がなぜエルシィのことを知っているのか。
アルディスタとは何者なのか。
この二点が問題だった。
これはヘイナルも同意見である。
平時であればさほど問題にならないかもしれないが、今のような非常時、逃げ込んだ先に自分たちを知る者が待ち構えていたなどとすれば、それは罠である可能性も捨てきれない。
まさかとは思うがハイラス伯国の手の者が先回りをして、エルシィ姫と国宝を奪いにやって来たとも考えられるのだ。
そうして少し警戒を強めたことを感じ取ったか、暗がりの老人はまたしばし沈黙してから言った。
「そう心配せんでも取って食やせん。
どれ、せめてそこの手拭いで汚れを拭いてからもう少し近くに来るがよい」
これにエルシィは返事をせず、ただ護衛であるヘイナルに視線で伺いを立てた。
ヘイナルはただ黙ってうなずいてから暗がりに向けて返答を投げる。
「これは親切にありがとう存じます。
ですがこう暗くては手拭いも満足に探せません。
ロウソクはどこですか?」
この言葉に老人は特に気にした風もなく答えた。
「人間は灯りが無いと何もわからぬのだったか。不便なモノじゃの。
ほれ、扉の脇のテーブルにあるじゃろ」
ヘイナルは視線を暗がりに止めたまま、手探りでロウソクを手に取った。
そのままでは火をつけられなかったので、エルシィが代わりにマッチを擦って灯りをともす。
社殿の奥が淡いロウソクの火で照らされ、老人の姿が暗がりに浮かび上がる。
「ひっ」
その姿を見て二人は思わず声をあげた。
怪しい者とは思っていたが、それがさすがに人ではないとは思わなかったのだ。
すなわち、社殿の奥にいたのは巨大な蛇であった。
「化け物が!」
ヘイナルがすぐさまエルシィを庇って短剣を抜く。
老大蛇もまた彼の殺気を感じ取り、長細い舌をチロリと回す。
が、すぐさまこれに待ったをかけるのはエルシィだ。
「ダメですよヘイナル。剣を収めて!」
「し、しかしエルシィ様」
「ダメです」
護衛として譲れぬことを主張するヘイナルだったが、エルシィのあまりな強硬姿勢に渋々従った。
老大蛇はそんな様子を見て「ほう」と小さく声をあげた。
「度々、わたくしの側仕えが失礼をいたしました。
お許しください」
「うむ、良かろう」
そうしてエルシィの謝罪をもって、矛は収められるのだった。
そも、初め大きな驚きをもって大蛇を見たエルシィが、なぜ無抵抗を主張したのかと言えば理由は二つあった。
一つには、このような人ならざる大蛇を相手に、ヘイナルの短剣では勝てないと見越したからだ。
この二ヶ月、ヘイナルの実力も多少なりとも見て来た。
人間相手で一対一であればそうそう遅れは取らないだろう。
だが今の相手は人ではない。
無理に命を懸けるより、対話の先に活路を見出すべきだ。
と、そう考えた。
そしてもう一つの理由。
それは日本人の感覚からすれば「不思議な蛇と言えば神の使い」という認識から来るものだった。
まぁ近頃の若い人には理解されないかもしれないけど。
とは小さなエルシィの密かな嘆きだった。
ともかく、そうした理由でエルシィはヘイナルに短剣を引かせ、敵対しないよう老大蛇に頭を下げたのだ。
彼女の謝罪を受け取った老大蛇は鷹揚に頷き、そしてもう一度、手拭いで泥を拭うよう勧めた。
そしてしばらくの時間をかけて丁寧に汚れを拭った後、彼は厳かに名乗りを上げた。
「ワシの名はティタノヴィアである」
と。
だが、エルシィとヘイナルは不思議そうに顔を見合わせてから、じっくり一〇秒ほど考えて同じ思いを口にした。
「ええと、どなたでしたっけ?」
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