466お腹が減っては
デニス正将率いるセルテ軍に引っかき回された挙句に将であるサイ騎士長が憤怒の内に失神してしまったので、トラピア軍は砦に引き返したセルテ軍を追うわけにもいかず会戦場に使われた平原にて一時陣を張った。
この指揮に当たったのは現在国元では唯一の継嗣とみられている故トラピア子爵の四男ハンノである。
この時、下部の士官たちの間では、サイ騎士長の配下でありこの軍の副指揮官でもある騎士府副長との間で揉めるのではないかと心配があった。
だが、副長の方はサイほど独善的な性格ではなかったし、国家元首になる血筋に対する敬意も持っていたので一も二もなく指揮の権限を渡した。
「いいのか?」
「いいも何も、トラピア民の命は子爵様のモノにございます。
であれば率い、戦いに向かわせるも休ませるも、すべては子爵様の御心次第」
「いや、私はまだ子爵位についていないが」
ハンノが少し呆れ気味にそう言い返しては見たが、副長は笑顔のまま首を振るばかりだった。
どうやらこの副長、貴顕に対する敬いだけでなく自分の責任で動かした結果をサイ騎士長から叱咤される危険を避けたい、という思惑も持っているようだ。
ハンノは仕方なしに、という風で各隊長、士官たちに「ここで一晩過ごす支度をせよ」と指示を出した。
その後は仮宿となる天幕を張る兵たちを見ながら陣地を歩き、陽が傾くと夕飯の煮炊きに上がる湯気を眺めて過ごした。
対して国境砦へ戻ったデニス正将は、ホーテン卿から「そのまま倒してしまえば面倒も無かろうに」などと言われつつ、戻った兵たちに武具や馬の整備や世話を命じ、再出撃の準備を済ませてから休憩してよい、と指示を出した。
これらが終わるころにはこちらもまた夕飯の支度時である。
しばらくして配給された夕食のスープと蒸かした地芋をモフモフと食べる。
粗末な食事ではあるが、最近侯爵閣下の肝いりで生産が始まったという北海の塩を使っておりなかなか美味である。
特にセルテ領ではどこでも採れる野生種の地芋など、みな子供のころから飽きるほど食べさせられた家庭料理の定番食材だが、これを煮込むでなく蒸かし北海塩を振ることでこれほど風味が変わるとは、と、兵の多くが感心しながら夢中になって食べた。
「みな満足そうで良いことだ」
「ええ、兵は食事で進むと言います。食事がマズいと士気にも関わりますからね」
「……それは本来の意味とはちょっと違うのではないか?」
「そうでしたか?」
などと自らも食事しつつ、ホーテン卿とデニス正将は話した。
ちなみに我らの世界においてもナポレオンが同様のことを言ったと伝えられている。
「兵は胃袋で行進する」。
これは兵站の大事さを伝えるものと思われる。
さて、そうして兵たちが夕食を採っている時、セルテ領主城のエルシィもまた同じスープと蒸かし芋を食べていた。
「ふむー。この地芋にバターを添えられるとまた美味しいでしょうねぇ」
「バターはさすがに高級品ですからね。兵に支給となると銀貨がいくらあっても足りないでしょう」
キャリナのそんな返事に「さすがにそれは大げさだろう」と思いつつも、実際問題として無理なのはエルシィにも判っていた。
ゆえに今回は比較的大量に作りやすい小エビの粉末などを混ぜた味付き海塩を支給したのだ。
どうやらこれは成功だったと、虚空モニター越しの兵たちの顔を見て判断できた。
それはそれとしてバターの生産も増やしたい。
バターが高級品なのは、一つに作る手間がかかるからだ。
自動の撹拌機もなければ牛乳が大量に供給されるほど酪農が盛んでもない。
というか普段エルシィが飲んでいる動物の乳も牛ではなくヤギというくらいだ。
この辺りの産業振興もじきにやらなければ。
そう心のメモ帳に書き添えるエルシィだった。
そんな一幕を挟んで食事を終えると、虚空モニター越しにデニス正将が姿を現した。
「侯爵閣下。お願いがあります」
「はい、何でしょう?」
食事の盆が下げられ新たに報告書や決裁書が積まれた執務机の向こうから、エルシィは気楽な声で返事をする。
デニスはそんな様子を気にすることもなく、言葉をつづけた。
「あと一時間もすれば侯爵閣下がおやすみになる時間かと思われますが……」
「いえ……あと二時間はかかりますね」
デニスの言いかけを遮り積まれた紙の山を眺めたところで、エルシィはそう苦笑いで返した。
さすがに「一〇歳にも満たない子供がそんな時間まで仕事か」と不憫に思ったデニス正将だったが、まぁそこはさほどエルシィを大事に思っているわけでなし、すぐにその思いは立ち消えた。
消えて、彼は「彼のお願い事」を口にする。
「……では二時間でもいいですが、ご就寝前にまた閣下の御力で軍を動かしてほしいのです」
つまり「とんでけー」の催促である。
この日は昼に二〇〇の兵を「とんでけ」しているので、単純計算で言えばあと一〇〇は動かせるだろう、という考えからのお願いだ。
エルシィはアゴを指でトントンとしながら少し考えて「いいですよ」と返した。
実際には昼から回復している分も合わせればもう少し動かせなくもないが、無理をして倒れるとその後の目覚めや体調に影響するので、そこまでは言わなかった。
「であれば、この後一〇〇の兵で夜襲を掛けます。
兵の帰りにそのお力を借りられればと」
デニスは意地悪そうに、そして楽しそうに笑った。
続きは来週の火曜に




