465ひっかきまわして
「まったくあの者は、主君をなんだと思ってるのですか!」
セルテ領主城執務室にて、エルシィの最側近である侍女キャリナが憤懣やるかたないと言った風に言う。
エルシィはこの急な怒りの発露にいったい何事かと思い、さらに周りに目を向けてみれば他にもアベルなどが同意とばかりに頷いていた。
はて。
と首をかしげてからポンと手を叩く。
キャリナは「あの者は」という言い方をしたが、おそらくこれはたった今戦場にいるデニス正将のことであろう。
ではなぜそのデニス正将に怒っているかと言えば、エルシィの権能を請うて使わせたからと思われる。
エルシィからすれば「味方の能力を有効に使うのは何も怒ることではない」という感覚があるが、どうも上下の身分が明らかである文化と、さらに言えばデニス正将の態度がキャリナやアベルの癇に障ったようだった。
どういう態度かと言えば、まぁ見る人が見ればなんてことも無いのだろうが、微妙に「せいぜい便利使いしてやろう」くらいの感情が透けて見えていたのだ。
デニス正将はその気になればポーカーフェイスができる男なので、おそらくワザと見せた表情だろう。
「まぁまぁ二人とも。
デニス正将は元々忠誠度がそれほど高くない人ですからあんなものですよ」
それぞれの感情をある程度汲んで理解したエルシィは、キャリナとアベルの二人を宥める為にそのように苦笑い交じりに言った。
「そうなのか?」
「そのような者を要職につけておいて宜しいのですか?」
二人はきょとんとして怪訝そうに首をかしげる。
そう、エルシィの持つ元帥杖の権能を使えば家臣たちの現在の状況や忠誠心といった普通では目に見えない心の有様の一部が詳らかになってしまうのだ。
だが二人には「なぜそれが解っていて使っているのだろう」という更なる疑問が湧いたのだ。
だがこれはすでにほかの家臣でもあったことなので、エルシィはなんてことない顔でのたまった。
「デニスさんは損得勘定ができる人です。
利を与えているうちは裏切ることはありませんよ」
なるほど。
そう言えばハイラス領にて労役刑と言う態で政府運営の手伝いをさせられているねこ耳たちの元族長ホンモチや、または現在エルシィの命令を受けて東方へ行商という名の工作に向かわせられたコズールなどがそれにあたるだろう。
もっともホンモチなどは労役中に提供される職員食堂の味の良さに絆されて、僅かずつだが徐々に忠誠度の値が上昇しつつあるのだが。
まぁそれはそれとして、主君が特に気にしていないようなのでキャリナとアベルは渋々その怒りの矛先を収めた。
ちなみに国境砦のテラスで戦場を眺めつつも虚空モニター越しにエルシィたちのやり取りを聞いていたホーテン卿などは面白そうにガハハと笑っていた。
さて、そんなやりとりはさておき、戦場はどんどん状況を変えていった。
まずエルシィの「とんでけー」によってトラピア軍右左翼それぞれに飛んだ一〇〇ずつの隊は、慌てる右左翼に攻撃を仕掛けた。
トラピア軍中央隊にいた指揮官、サイ騎士長は、中央隊は速度を上げて右回りに回頭、右翼の救援に回れと、急ぎ伝令を回した。
だが、ちょうど攻撃を受けている右左翼はたまったものではないとばかりに、中央隊同様に、いやわずかに上回る速度で前方へ進んだ。
逃げのために、である。
するとどうなるか。
先ほどまでは中央隊が少し突出する形で逆鶴翼陣の様な形だったトラピア軍が、徐々に横長の長方陣形になりつつあった。
「バカ者! 右左翼の隊は何しているのだ!」
これに慌ててサイ騎士長は叫んだ。
今は長方陣で済んでいるが、右左翼がこのままのスピードで進めば中央隊が遅れて、敵軍に背後を晒した間抜けな鶴翼陣になってしまうだろう。
「ええいこうなれば中央隊も右左翼に合わせてスピードを上げ横長方陣を保て!
敵軍を振り切ったのちに反転して逆襲する」
「し、しかし……」
「いいから言うとおりに伝令を回せ!」
「はっ!」
サイ騎士長は苛立ち紛れにそう命令を発して、自らの馬にもさらにスピードをあげるよう足を入れた。
ここに来て、練度の高いものを中央に集め右左翼は士気も低い者ばかりにしたことが裏目に出ている。
そんな自らの采配の失敗もまた、苛立ちの原因だ。
こうしてトラピア軍は襲歩とは言わぬがそれに近い速力で逃げるように進み、元々セルテ軍がいたあたりまでたどり着いた。
ここまで来ると皆が皆ダッシュでバテていて「止まれ!」の命令を発布するまでも無く、勝手に緩やかに止まった。
そしてふと、誰かが力なく言う。
「おい、さっきまで追って来てたセルテ軍がいないぞ?」
「……なに?」
目端の利く者はすでに気づいてはいたが、多くは逃げるのに必死で気づいていなかったのだ。
キョロキョロと見回せば二〇〇のセルテ軍はすぐに見つかった。
彼らは悠々と言った風で、いつの間にか戦場から離脱し国境砦へと戻り始めていたのだ。
トラピア兵たちの緊張は一気に抜け、多くがその場にへたり込んでしまった。
今更何を命令されても追う気力など残っていない。
サイ騎士長はこの惨状を見て頭から湯気が出るほど真っ赤になって、そして白目をむいて倒れた。
一部始終を口出さずに見ていたこの軍の最高指導者たる故子爵四男ハンノはため息交じりで駆け寄った衛生兵に訊ねる。
「サイ騎士長はどこか悪いのかい?」
「極度の怒りが原因で脳に血が廻らなくなり失神したモノと思われます」
「そんなことがあるのか」
「いえ、めったにありません」
「やっぱりどこか悪いのではないか?」
ともかく、これでトラピア軍は今すぐ砦攻めに向かうなどできなくなった。
砦に戻ったデニス正将と二〇〇の兵は、留守居を与っていたホーテン卿と故トラピア子爵の長子フォテオスが出迎えた。
自分の策が上手くいったという満足感から実に良い笑みを浮かべているデニス正将に、ホーテン卿は訊ねた。
「デニスよ。あのまま攻めておれば勝てたのではないか?
なぜ退いてきたのだ」
これにデニスは特に表情も変えず答える。
「なぜって、今回の野戦は最初から様子見と言ってたではないですか。
予定通りですよ。
それに勝てた『かも』なんて楽観論で配下を危険にさらしたくありません。
なにせ敵はこちらの兵より多いのですからね」
「さよか。
まぁ、こっちの目的は元々本隊が来るまでの時間稼ぎだから良いがな」
ホーテン卿は呆れ顔でため息をついた。
続きは金曜に




